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「この辺、来たことあるの?」
「まさか」
 予約しておいたホテルの住所を伝えると、ティナは声を硬くした。慣れていると思われては敵わないからすぐに否定する。
 運転するティナは、もう帽子もカチューシャも取ってフロントガラスの外の街並みを注視している。会話は途切れ、ぱらぱらと雨粒が窓を叩く音と間隔が強く狭くなっていく。
 僕の入っている寮は門限はないが寮生以外を部屋に入れられない。そもそもティナを寮の仲間に会わせる気はない。そして彼女は日帰りだ。となれば、行く先は一つ。

 ネオンが点り始めた歓楽街、遊園地帰りの服装がちぐはぐだ。考えることは同じなのか、路地に似たような二人組がらちらほら見える。僕らも浮かれた学生カップルに見えるだろうか。それともティナが年上に見えるだろうか。離れている間のことが気になってしまうのは、こういうことを考える時だ。
 彼女は付き合い始めてからぐんと大人っぽくなった。留学から帰国してまもなくティナに連れて行かれたバーもその要因の一つで、彼女もこういう場所に出入りするのかと驚いた。実際は昔からの知り合いの店で一安心したが、人相の悪い店主にキツい酒をお見舞いされティナに介抱される羽目になった。
 そしてアパートの隣には男が住んでる。僕なんか小学校から知ってる腐れ縁のルーネスと同じ大学で寮まで相部屋だっていうのに。共有スペースの掃除はサボるし冷蔵庫のもの勝手に食べるし最悪だ! それはさておき僕だって一度でいいからティナと「お隣りさん」になってみたかった……。

 隣を見ると、ティナは上がっていく階数表示をぼんやりと見つめている。沈黙がエレベーターにかかる重力のように重苦しい。
 ふとティナが下を向き、垂らした手の先で僕の指先に触れる。離れないうちに指を絡めて手を握る。いつもひんやりしている彼女の手のひらは、熱が籠りしっとりとしていた。
「熱いね。風邪ひいちゃったかな。怠くない?」
 ティナはただ首をふる。
「無理は良くない」
「そうじゃないの、大丈夫……」
 二度確認すると激しくふる。ならいいけど、と引き下がる。

 薄暗い部屋の中は空調が効いて快適だった。近隣のテーマパークを意識してか、壁に描かれたファンタジックなイラストが青紫のブラックライトに浮かび上がる。青白く発光するベッドシーツを物珍しげに触るティナを横目に荷物をソファに置き、窓辺に寄る。
 分厚いカーテンの隙間から外を窺う。土砂降りの雨がガラスに打ちつけられ水の膜が流れ落ちていく。海の底みたい、と呟く声が後ろに聞こえる。

「少し休もう」
 カーテンを閉めて振り向く。
 疲れたでしょ、と彼女をベッドへ促す。腰かけたティナが後ろへぽすんと倒れ、深い青のベッドカバーにふわりと後れ毛が広がる。昼間たくさん動いてピンが緩くなったのだろう。きっちり結うより乱れた髪のほうが可愛く見えるのは惚れた欲目かもしれない。
「たまくんこそ、……ごめんね」
 ごめんねとは、気を遣わせて悪かったということだろうか。見上げる彼女の横に座る。
 ティナは寝たまま、きゅうと僕の腰に抱きつく。不安にさせてしまった。

「あのさ」
 頭が冷えているうちに言っておく。
「ティナ、この際だから言っておくよ。よく聞いて」
 僕を見上げる瞳は緊張を帯びている。
「君は、はじめて会った時から大切な女の子なんだ。今でも。これからも」
 留学先でエリアと出会い、バイト先の客や同級生に心を寄せられても変わらない。ティナがいきなり何、と言うように瞬きする。
「もちろんティナも知ってる通り、今日会った子や前に紹介したエリアだって大事な友達だ」
 エリアは留学先で世話になった家の娘だ。同じ大学の神学生で、ひとつ歳上だった。

「うん、エリア……いつか会いたい」
 なんというか、エリアは不思議な人だった。
 見つめられると安心して、すべてを赦されているような泣きたいような気持ちになる。
 あの国自体がそうだった。空港から出て緑と光あふれる大地を目にしたとき、「帰ってきた」ような気持ちがした。言葉も耳によく馴染んだ。おそらく僕はあの国の血が入っていると、心の奥で思いたがっている。血縁者が一人もない身では確かめようもないが。

 異国の夜、ビデオ通話でティナはエリアと話す。こっちに来ることがあれば私の部屋に泊まりに来て、と誘う。エリアは自国の言葉でたどたどしく話すティナが愛らしい、会ってみたいと喜んだ。
 僕がそれをティナに訳す。伝わってほっとしたのか緊張がゆるみ、上気した頰を手のひらで包む。目を細めて笑う。
 ティナは僕に愛なんて言葉を一度も使ったことはないが、愛らしきもののかけらを明確に感じたのはそのときだった。
 通話を終えると、いつもは柔らかい笑みを絶やさないエリアが神妙な顔つきで僕を見ていた。にやけていたかと謝ると『彼女の手は離さないで』と言った。理由は教えてくれなかった。

 帰る前は名残惜しく思えば思うほど、帰らなければならないと言い聞かせた。それと同じくらいティナの声が直に聞きたかった。いつか彼女をあそこへ連れて行きたいと考えていることは、まだ言っていない。

「……要するに、僕を信じてってこと」
 総括すると君が大事だという内容を話すあいだ、ティナはまぶしそうに僕を見ていた。話し終えると瞬きしてうん、と頷く。触れていた腕に力がこもる。
「たまくん、私が怒ってると思ってる?」
「怒ってると言うより、がっかりさせたんじゃないかって」
 ティナはうーんとあごに人差し指を当て、「告白されただけなら、私だって言わないかも」
 そう言って自分の気持ちを確かめるように頷く。
「ただ今日一緒にいて……可哀想で。知っていればもう少し、あの子が傷つかないようにできたと思う」
「その点は僕が至らなかった、ごめん……ちょっと待って。ティナも告白されたの?」
「たとえ話よ」
「僕には言ってよ!?」
「ええ…? それっておかしいわ」
「変な奴だったら逆恨みされることだってあるでしょ。ティナは特に!」
「ううん…気が向いたらね」
「何かあったとき、知らなくて後悔したくないんだ。挙動がおかしかった奴だけでも教えてほしい」
「わかったわ、あなたも今日みたいなときは言ってくれたら嬉しい」
 もちろんと返し、汗のにじんだ手のひらをジーンズの太ももで拭く。時計を探して顔を向けた先に、カゴに可愛らしくセットされた避妊具とローションが目に飛び込んできて咳払いする。ええと、と言葉を濁す。
「する? ……いつもの。遅くなるといけないから帰ろうか。帰る前にどうしても話したかったからさ、僕は全然かまわな」
 ティナが手に触れて早口を止める。
「…する……」
 見下ろした彼女の頬は赤らんでいて、心臓がばくばくと動きだす。

「わかった、じゃあ…シャワー浴びてくる」
 立ち上がろうとするがティナは腕を巻き付けたまま離れない。
「いや」
 生唾を飲む。寝たまま服の隙間からするりと腹に触れられる。
 ベルトに手がかかり、腰に指の這う感触に呼吸が浅くなる。ティナは腰に掴まりながらするりとベッドから降りて正面に膝をつく。ゆっくりと前を寛げ、下着の上から撫でる。生地の上からそっと口づけて柔らかく食む。それをじっと見る。今日、まだキスもしてない。
 すぐに反応する陰茎をすりすりとさすられ、否が応でも声が出る。
「っ、う、……んっ」
 はじめての性体験がフェラチオだったら、その後の嗜好に影響あるのだろうか。それなら僕の責任だ。責任なら、ずっと前から取るつもりでいる。ティナにいらないと言われたらそれまでだが。
「汗、かいてるから……っ」
 建前だった。してくれるならいくらでも差し出したい。ティナは何も言わず下着から半勃ちになったものを取りだす。すん、と匂いを嗅いで微笑む。それだけで質量が増す。

「っあ…ん……そんなに、舐めたい?」
 本当にいいのか確かめるつもりで聞くと、白い手で陰茎を支えて撫でながら口付けていた唇を離す。
「だって……」
 涙目で言い、根本かられろと舐め上げる。舌が熱い。甘く焼かれるような痺れと快感が腰を駆け上がる。亀頭をつつ、と舌先が円を描く。円は下降して行き、くびれを責め始めた。
「…っうあ…! …んっ…お……!」
 白く細い鼻先がカリに当たって羞恥で体が熱くなる。臭うかもしれないそこをぞりぞりと舌で擦られ、性器が何度ものけぞる。
 二人きりになって初っ端からこれなんて刺激が強すぎる。気乗りしない風を装っていたのに、興奮してるのがバレバレだった。久しぶりだから仕方ない、と自分に言い訳する。

「………たまくんは、私のなの」
 言うと、先走りのあふれ出す穴に唇をつけてちゅうう、と吸う。舌が裏筋へ伸びてちろちろと舐る。
「ん、く、っ…う……あ、あっ…あぁ…!」
 やきもちを、焼かれてる。
 身体だけじゃない快楽がぞくぞくと首根や背筋を這いまわり脳を痺れさせる。腰も心もとろけそうだ。ただ、顔が遠いなと思う。

 僕の内に渦巻く感情も知らず、ティナは亀頭を口に含み舐め転がす。
「あ、あっ、あぁっ……も、出そうっ…」
 ティナの頬に触れて離すよう促す。愛撫は止まらない。根元まで咥えてじゅ、と吸いつく。
 挿れられない制約があっても勃つものは勃ってしまうわけで、自然口でしてもらうことが多くなる。ティナは確実に上手くなっていた。
「ティナ、そこまでする必要っ、ないから、……っあ、あ、吸わ…っ!」
 ティナはただ首を振る。
 気持ちが良すぎて本気で止める気にならない、吸い尽くしてほしい。
「……っ、ん、…イ……っ…! …!!」
 勢いよく噴き出す体液をティナは舌で受け止める。喉が動く。口の端から垂れた精液を舌で舐める。鈴口に唇をつけてちゅ、と吸う。それも少し苦しそうに飲み下す。こぼさず全部飲んで貰ったのは初めてだ。
「ん……っ」
 はぁはぁと息も整わないまま、吐息とともに「良かった」と吐き出す。ティナはまだ、僕が好きだ。

 僕の独り言を勘違いしたティナが首を傾げる。
「…気持ちよかった?」
「あ、そうじゃなくて……気持ち良かったけど、すごく」
 正直言うと不安だった。
 連絡を取り合い通話アプリで性的な会話をしていたって、見えないことはある。普段あまり見せない彼女の独占欲を感じられ、今日のこともこれで良かったと思えてきた。彼女をベッドに座らせてそっと手を重ねる。
「ティナ、ありがとう……なんていうか、君の気持ちはうれしいよ。でも無理しないでいいから」
 言葉を選びながら言うが、ティナは特に反応せず僕の顔をじっと見ている。
「唇、切れてる。リップ塗ってあげるね」
「今からキスするのに? …舐めてよ」
「ん……」
 ティナが顔を寄せ、おずおずと唇に舌を這わせる。ぬるく柔らかな舌先が唇にできた裂け目をちろりと舐る。
「っん…あっ……」
「……痛い?」
「平気。興奮しちゃったぐらい」
 ティナは気をつかってゆっくりと唇を交わす。それがかえって劣情を煽った。少し痛くて、気持ちいい。暑い中歩き回ったせいか、抱きしめた身体が熱い。このあと体調を崩さないといいけど。
 考えていると、胸に手のひらが押し返されて彼女が戸惑いがちに身体を離そうとする。

「あの、離して。シャワーしたいの」
「いいんでしょ?」
「汗かいたし……」
「だからいいんじゃない。ティナだけずるいよ」
 腕に力を込めて抱き締める。ティナが僕の名をささやく。彼女の匂いを濃く感じ、思いきり吸い込む。体がかっと熱くなる。
「…ティナ……っ」

 ぱっ、とティナが身を離して眉を寄せる。
「やっぱり私、汗くさい?」
「まだ気にしてるの? 全然臭くない。いつもの香水つけてる? いい匂いがする」
「脚につけてるから違うわ。今日は濡れたし、時間も経ってるから消えてるはず」
「じゃあ汗とティナ自身の匂いだね」
「…離して」
 やだよ、と首すじに返事する。ゆるく抵抗するティナを腕に閉じ込め鼻を押し当てる。まだキスしかしてないしさっき出したばかりだというのに腰が疼いている。
「あ、あ、やめて…」
「脱がせていいかな」
「きゃっ!?」
 言いながらモグTシャツを脱がせにかかる。下には昼間見た黒のインナーを着ていて、下着はつけていないのかとふと疑問に思う。Tシャツを一気に抜き取ると服と体の間で温まっていた香りが彼女の周りにふわりと広がった。甘いお菓子みたいな、でも甘いだけじゃなく舐めまわしたくなるような。一言で表すとムラムラする匂いだ。鎖骨のあいだをぺろりと舐める。
「……フェロモン?」
「フェ……? ひゃっ! や、やめて」
 フェロモンって眉唾なんだけどな、と呟いて耳の後ろや首すじ、鎖骨のくぼみ、肩……鼻を擦り付けすんすんと嗅ぎながら唇を落としていく。

「ティナ。次もシャワー浴びないでしたい」
「いやよ……!」
「ティナが嫌なら僕だけするから大丈夫」
「ねえっ、聞いてる?」
「こんなにいい匂いなのにさ、流したら勿体ないよ…ん…っ」
「さっきから何かたまくん、変よ……? 酔っ払ってるみたい」
「ティナが僕を誘惑する匂いを出してる」
「知らないわ……!」
「あ、ここも」
 腕を上げさせようと手首を掴むと、何をするか察したティナが抵抗する。
「や、やめて! 恥ずかしいの!」
「待って、あとここだけだから! ここが一番いい匂いかもしれないんだ」
「そんな宝探しみたいに嗅がないで!! とにかく、落ち着いて……ね?」
 ティナは僕の頬を手のひらで包むと膝立ちになる。胸にぎゅうと抱きしめられる。苦しくて息をすうはあと吸い込んでいると、落ち着かせるように穏やかに頭を撫でられる。これってまるで、甘えてるみたいじゃないか。

「…………落ち着いてきた。ごめん」
 無理やり腋を嗅ごうとするなど、どう見ても錯乱している。さっき『僕を信じて』なんてカッコつけてた人間とは思えない。
「でも……でもさ、変かな。ティナは寂しくないの? 僕だけかな」
「変って?」
「あと少ししかいられないのに、もっと近づきたいし覚えていたいんだ。匂いとか味とか、全部」
「あじ……」
 ティナは意外、という顔で目を丸くする。
「こんな風にね」
「ひゃっ」
 ぺろりと耳の下を舐めると、ティナも僕の首すじに顔を埋める。耳の後ろの髪にすりすりと鼻を擦り付け、嗅がれているのを感じて顔が熱くなる。

「変じゃない、私も…私もね、あなたのにおい、好き……味も、好きなの」
 味、と言われると、思い起こしてしまうのはさっき性器を這っていた舌の感触だった。耳元で、ティナの声で、自分の存在を肯定される。ティナがくれるもので胸が満たされ苦しさすら感じる。
「…………ティナ、っ」

 仰ぎ見ると、彼女の顔はいつの間にか移動して頭頂部を嗅いでいた。すんすんと髪に顔を埋められる感触に羞恥が湧き出してくる。
「あ、頭はやめて! ちょっ、ほんとに頭はっ…! 恥ずかしいってば!」
「……ね? 恥ずかしいでしょ?」
「もう! ティナッ! ……あ…」
 やっと、笑ってくれた。微笑んで僕を見つめるティナの顔に、胸の中に転がる不安の塊が柔らかく解れる。これから何度も固まったり溶けたりを繰り返すのだろう。だったら汗かいた頭くらい何分だって嗅いでくれていい。
 胸から顔を離し、向かいあって手を重ねる。ティナの手は温かくて、今は僕の手がそれよりもっと熱い。

「うん。ほんとはふたりで買い物するの、楽しみでさ……だから、ティナが楽しそうでなんか、悔しくて…女の子に嫉妬するのも変な話だけど」
「たまくんの友達だから大事にしたかったの」
「大人だね。僕はまだまだだ」
「ううん、私もね、たまくんがいないから買いすぎちゃった」
「あはは、やっぱりね。荷物重いと思ったよ」
 ごめんね、と申し訳なさそうにするティナを見て、ふと思い出す。
「あ、そうだこれ」
 ポケットから小さな包装を取り出し、ティナに開けてみるようにと渡す。
 モグとチョコボの小さなプレートがついたブレスレットだった。チェーンの等間隔に配置され、星屑のようにきらきらしている。
「これ…買おうか迷ってたの! よく分かったね、可愛い……!」
「そうでしょ? お見通しなんだよね、ティナのことは」

 ブレスレットをティナの手首に通してあげると、照明に透かして嬉しそうにする。しばらく見て楽しんだ後、はにかんで僕に向き直った。
「……私も、もっと覚えてたい。あなたのこと…もっと、近づいて…?」