ガール・オブ・マイ・ドリームス

 初夏の風が着込んだ襟元を涼ませる。
 そよぐ緑の匂いに、いい日だと思う。昼に簡素な式を終え、ガーデンレストランの庭でパーティの準備を待っている。ティナがレースの手袋に包まれた手のひらを握っては開き、指をしきりに動かす。今夜はティナとピアノを弾く予定だった。
「準備運動には早くない?」
「人前で弾くの、久しぶりで緊張するの……あなたは平気そうね」
「僕はこういうの慣れてるから」
「初めてなのに飲み込みも早かったし、驚いちゃった」
「自分でも不思議だけどね。大丈夫だよ、一緒に練習したじゃないか。それに、これから飲めや歌えの騒ぎだよ? ライトさんと君の姉さんくらいじゃないかな、真面目に聴くの」
「そうかな……そうよね」
「ティナが笑ってればみんな嬉しいんだ」
「ふふ、あなたもね」
 バラの咲く庭園は昔夢で見た場所と似ていた。ティナに話すと、私もコスモスに会えたらいいな、といって決めた会場だった。
 あの夢は大人になるにつれ見なくなっていた。亡くなったはずのコスモスと、異装の自分たちの夢。

 ──あなたのこと、はじめてじゃない気がするの。
 はじめてティナと結ばれた朝、彼女がつぶやいた言葉の意味はまだわからない。事実子どもの頃からの仲だ。明確な説明をつけられないまま数年がたち、今日僕らは結婚する。

「たまくん」
 庭一面咲いたカモミールの小さな花を真っ白なドレスの裾で撫でながら、ティナがそっと近づく。曲がってないタイを直してくれる。それが胸にくすぐったく、嬉しい。
 彼女の鎖骨には並んだ真珠の先に淡い緑の石が光っている。ティナが僕の目の色に似てると選んだネックレスだ。
「ティナ……」
 クリスタルの連なったイヤリングに触れると、しゃらりと音がしていつもの清らかな草花が香った。何の香水か、結婚が決まってやっと教えてもらえた。
「おめでたい日なんだし違うのつけても良かったんじゃない?」
「だめよ。一日終わるまで気が抜けないの」
「何の『気』なの? 僕は忘れたりしないのに」
「おまじないよ。ほら、あの香水って青い瓶でしょ」
 とティナは笑う。それって青いもの自体を身につけるんじゃ、と言おうとしてティナが遮る。
「ねえ、どうしたのかな」
 腕時計を見ると予定の時刻を過ぎようとしている。
「そろそろ時間だね。少し待つ?」
 五分、十分経っても、ティナの介添えを務めるライトニングとティナの友人たち誰も来る気配はなかった。それどころか周囲はいやに静まり、人の声がしない。

「何かあったのかも。行ってみようか」
 ティナの手を取り庭園を抜けてパーティ会場へ向かうが、歩いても歩いてもバラの小径は終わらない。この庭はこんなに入り組んでいなかったはずだ。立ち止まると、むせるほどのバラの香りが左右の生垣から漂う。赤、黄、ピンク、ベージュに薄紫に白。ここは、これほど多種のバラが咲き乱れていただろうか。色がこぼれ落ちて見えるほどに。頭が、くらくらする。
「…これ、夢の……」
「夢?」
 不安げなティナの手を握り返したその時、チャペルの鐘のような音が鳴り響き、夕空がまぶしく光った。
「なに……!?」
「ここ鐘なんてなかったよ、ね……?」
 光源をたどって頭上の人影を仰ぐ。目を凝らす。写真で夢で何度も見たその顔かたち、見間違えるはずもない。

「コスモス……!?」
 コスモスとしか言いようのないものが、女神と見紛う優美さで舞い降り手を差し伸べる。祝福を授けるかのように光の粒が降り注ぐのを見届けると、微笑んで建物の方へ消えてしまった。
 呆然と見上げていた僕とティナだったが、はっとして顔を見合わせる。
「あなた、『オニオン君』……?」
「え……?」

 その呼び名が耳に入ると同時、きぃんと耳鳴りがしてティナの輪郭がぶれ、周囲の景色と混じり合う。記憶にある制服や普段着、パジャマ姿の彼女、その合間に見たこともない服のティナが見え隠れし、やがて「見慣れた」赤い衣装の彼女と白いドレスが重なった。
「……!! ティナ!? ってことは僕、君と結婚!?」
「そうみたい……」
 あまりのことにしばし無言で見つめあう。
 なんと記憶を取り戻したらティナと結婚にまでこぎ着けていた。よくやった、現世の僕。と言っていいのか。
「ええっと……ティナはいいの?」
「も、もちろんよ」

 それにしても、なんて巡り合わせ。
 思い返せば彼女の体で知らないところはないくらいなのだ。ティナの方も何を思い出したのか口元に手を当ててうつむいてしまった。声をかけると後ろを向いてしまう。回り込んでみると、頰を包んで赤くなったり青くなったりしている。
「……私」
「いやだった?」
「…私っ……ごめんなさい!!」
「へっ?」
 そして僕の手を掴んできっぱりと言った。

「やっぱり離婚しましょう!」
「落ち着いてティナ。さっき役所で届けたばかりじゃないか。とりあえず状況を把握しないと」
「なら、パーティは取りやめにして…」
「どうしてそう思うの?」
「記憶がなかったとはいえ、あなたの人生を……本当にごめんなさい、私なんかに縛りつけて。あなたには、心のまま生きて、幸せになってほしかったのに」
 ティナは青い顔でふるえている。
「今の僕が幸せそうに見えないんなら、君の目は何が見えてるの?」
 切実に見返してくる花嫁はまだ納得できないらしい。

「確かにあの世界での僕はまだ子供だったんだろうけど、ここで一緒に時を過ごした僕は何なの? 今君の隣にいるのは小さな子供?」
「いいえ……でもあなたは嫌じゃないの、私と結婚なんて」
「嫌なわけない。記憶が戻る前のティナは、僕を本当に好きでいてくれたって信じられるからだよ。僕は『生まれる前から』君のこと想ってたみたいだしね。今さら何も変わらないさ」
 ティナの大きな瞳が見開かれる。
「……!」
「ティナが前の僕も、記憶がないまま君を好きになった僕も嫌だっていうんなら仕方ないね。残念だけど」
「ち、違うわ! だって…………、戻ったときあなたを縛りたくないの」
「言わないで。僕がそうしたいんだ」
 ティナの手を両手で包んで見つめる。彼女も、気づき始めている。

 手の中で細い拳が握りしめられる。
「私も。私もそう、たぶん、ずっと前から……たまくん」
「そうだよ。縛りつけたって思うなら、僕の幸せを願ってくれてたなら、結婚してよ」
 今だけでも。ティナは僕をじっと見て、頷く。
「本当に僕でいいんだね」
「あなたしか、いないわ」
「ほらね、僕しかいないでしょ?」
 片目をつむってみせると、ティナは驚いた後くすくす笑った。安心して息を吐きだす。
「あー……、良かった。どうやって言いくるめようかと思ったよ」
「いいえ。よろしくね、たまくん……たまちゃんの方がいいかしら?」
 ティナが目尻を細めていたずらっぽく笑った。どきりとして僕も笑う。
 ああ、幸せだ。
 幸せだったのに、ひどいよ、コスモス。

 夢だと自覚してしまった夢は、長く見続けられない。だからこそティナの気持ちを確かめておきたかった。泡になって消えてしまう前に。
「向こうも騒がしいな」
「行きましょ、みんなのところへ」
 我らがリーダーと仲間のもとへ。あの世界で憧れた、強く美しき戦士がここでは自慢の兄だなんて、なんて名誉だろうか。「現世」の僕はつくづく幸せ者だ。

 小径の先からこだまする、混乱、戸惑い、驚き、達観し、それでも再会を喜ぶ声。
 ダンスのBGMにとティナとふたりで練習したピアノ曲は、披露することはないだろう。
 さあ僕らも行こう。これが現実だったなら、朝まで語り明かしても足りないくらい、たくさん話をしたかったのに。