おまけのフライング・バレンタイン

 ティナはもう仕事を終えて帰った頃だろう。夜、片付けや買い物の雑事を終えて彼女の部屋を訪れる。インターホンを鳴らすが反応はなく、暗い室内から物音がする。ゆっくりとドアノブを回してみる。
「開いてる……」
 素早くノックをし、ティナ帰ってる? とそっとドアを開ける。洗面の薄明かりの下にぼんやりと佇む彼女を見つけ、ほっとしたのも束の間だった。
「おかえり、たまくん」
「お疲れティ……ちょっとぉ!!」
 洗濯機の前に下着姿のティナが立っている。
「なんで裸なの!? しかもカギ開いてたよ!?」
「たまくんの声すごく響くね。もう先生になるんだもんね」
「ティナっ、聞いてる?」
「だって洗濯してたんだもの。カギはそろそろたまくんが来るかな、と思って開けてたの」
 遠回しにうるさいと言われて若干ショックを受けつつ、床にランドリーバッグを下ろす。ティナは少し疲れた顔をしている。
「はぁ……顔に泥ついてるよ。どうしたの?」
「バレンタイン泥遊び大会」
「バレンタインと泥に何の関係……ああ、チョコか」
「一番愛情たっぷりに作れた人が優勝なの」
「寒いのに元気だね。ティナも参加したの?」
「うん! 68位」
「どう審査するのそれ……」
「持っていったチョコも喜んでもらえたし、みんな楽しんでたわ! たまくんは片付け終わった? ライトさん喜んでたでしょ」
「まあね。それよりティナ、カギはいつでもかけて。僕が来るってわかっててもだよ。君みたいな人がオートロックのないとこに住んでるの、ほんとはすごく心配なんだ」
「わかったわ」
 頷くティナをよく見ると頬や首すじに点々と泥が跳ねている。わかっていなさそうな彼女に、男は怖いんだよと念を押す。
「そうかな」
「そうだよ。だって僕今ちょっと……変な感じだから。明日戻ったらティナがいないんだって思うと、なんか……ああもうごめん忘れて」
「今までもそうだったじゃない、あと少しだから頑張って! 明日はたまくんのチョコ作らなきゃね」
「うん、そうなんだけどさ。知っちゃうと……ま、いいや。泥はやめてよね」
 余裕ありげにふふ、とティナが笑う。笑った弾みで下着のなかでささやかに揺れる胸から、どうしても目が離せない。昨日のティナの匂いや感触を思い返して、今も同じか答えが知りたくてたまらなくなっている。
「君が信頼してる僕ですらこうなんだよ。それを見ず知らずの男、知り合いからでも向けられたらどれほど怖いか。知ってるでしょ、ティナ」
 手を握って伝える。寒い中一日外にいたティナの指は赤い。頬も小さな鼻の頭も、赤い。
「うん、ありがとう。たまくんが近くにいるって思うと、安心しちゃうみたい」
「困ったティナだなあ」
「それに、ここには雲さんもいるわ」
「いるけどさ。いつも見回ってるわけじゃないし」
 ここには僕ら兄弟の大家だった「雲」が管理人として住んでいる。ティナがここを選んだのもライトさんの勧めだ。
「呼んだか?」
「ぎゃっ! 何だよいきなり」
 後ろから声がして振りむくと、風呂桶を抱えた雲がドアの隙間から顔を出している。
「何じゃ小童、帰っておったか」
「あっ、雲さん!」
「戸が開いておったから覗いたまでよ。不用心なやつめ」
「あっ……」
「ほらたまくんだって忘れてる」
 よくあることなのか、ティナは半裸でも恥じ入ることなく会話している。雲も気にした風もなく続ける。
「今日は無しか? フルーツ牛乳奢ってやろうと思ったのにの」
「ええ、ごめんなさ…、えっ……!」
「行きたいなら行けば」
 目を輝かせた表情から一転して、ティナは僕を見上げる。僕だって意地悪言いたいんじゃないけどさ。
「やっぱりごめんなさい、来週行きましょ!」
「両方とも素直でないな。まあ丁度よい、あのこと忘れんように。わしは一人で行くぞ」
「もちろん忘れないわ。またね雲さん!」
「……何?」
「ふふ、後で話すわね」
 邪魔者め、と雲はふらっと出ていく。どっちがだよ。ティナから銭湯仲間なのだとは聞かされていたが、今でも苦手だ。昔から全く風貌が変わらず古めかしい口調もそのまま。子どもの頃ジタンとふたりでつけたあだ名は「化け物」だったが、あながち間違いではないかもしれない。
 ティナがごとごと音を立てる洗濯機を見つめながら言う。
「私ね、さっきぼうっとしてたの。脱いだら、思い出しちゃって。昨日のこと……あなたと一緒ね」
「……ティナ」
「でも汚れてるから、先にお風呂がいいな」
 ティナが顔をそらして泥のこびりついた髪を触る。耳が赤いのはたぶん、違う理由だ。
「い、一緒に入る? 家でご飯作ってきたから後で食べようよ」
「本当? 嬉しい! なになに?」
「内緒」
「私もベーカリーで色々買ってきたの。たくさん遊んだらお腹すいちゃって」
 服を脱ぎながら後のことに期待していると、下半身に視線を感じる。こういうとき大抵、ティナはとんでもないことを言い出す。予感は的中した。
「あのね、それ……たまくんのパンツ、くれない?」
「……え!? なっ、なんで!?」
「雲さんがね、外に彼氏のパンツ干しとくと男の人と住んでるように見えるって」
「あ、ああ! そういうことね! はいはい! いいよ!」
 脱いで渡した下着をまっすぐ洗濯かごに入れるティナを見て、頭を駆け抜けた想像を追いやる。ティナがそんな事するわけないじゃないか。いくらなんでも浮かれすぎだ。

 二人でシャワーを浴び、ティナにドライヤーをかけてもらう。風音の合間のハミングに乗って、細い指が髪を梳き首をくすぐる。浴室で耐えたのが裏目に出た。頭と体が浮ついて勃起がおさまらず、二人で赤くなる。
 髪を乾かすのもそこそこに、洗ったばかりのシーツと念のためタオルも敷き、声を殺して二回目のセックスをする。
 後ろから抱きしめて髪をかき分ける。薄暗い部屋では、うなじの痕は無いも等しかった。
 挿れながらキスマークをつけ直す。ティナがからかわれるのは嫌だから、うなじだけに何度もキスする。口を押さえているティナのかわりに中が僕を咥えこみ吸いついて返事を返す。
 うれしくなって首を舐めながら僕の形を覚え込ませる。擦り上げるときつく食い締められ、水気を含んだ髪に鼻を埋め射精する。声を我慢する彼女に興奮して昨日より保たなかった。
 食欲より先だなんて、セックスをおぼえたての今だけだろうか。先のことはわからない。
 ……朝、ティナは僕の心がはじめてじゃない、と言った。小さな頃から知っているからそう感じるんじゃないかと答えたものの、なにか腑に落ちなかった。
 暗い部屋でキスしながら、買ってきた避妊具を手で探る。明日には薄れていく痕が嫌でたまらないことや今日のことも、いつかこの先忘れてしまうんだろうか。

2022.3.6