忘れな草のコロン

 雨上がりの朝、雫きらめく窓を開けるとふわりとカーテンが舞った。
 観葉植物を窓辺に置いて日を当て、今日も元気そうな植物に目を細める。そうしてやっとティナは深呼吸し、澄んだ空気を体に取り込んだ。
 軽い朝食と身支度を済ませ、姿見の前に立つ。新調した服もアクセサリーも、見様見真似でアレンジしてみた髪も変ではないはずだ。あとは……と青いガラスの瓶を手に取る。冷たい瓶を矯めつ眇めつし、ようやく中身を足首に吹き付けた。

 ティナはレンタカーの鍵を受け取ると、運転席に乗り込む。この日のために取った免許なのだと、ハンドルを握り微笑んだ。
 待ち合わせ場所は現在のティナの住まいと、この春彼女の恋人となった青年が進学した首都との中間地点だ。
 ティナを首都へ呼び寄せるには遠く、しかし入学して三ヶ月、大っぴらに帰郷するわけにもいかず。更に彼曰く夏休みは予定が詰まっているという。ティナの方は夏休みなど無いに等しい職業だ。大学の長い休暇のうち一日くらい、都合がつけられないものか。そう思ったがティナは口にしなかった。自分とて保育士を目指していた短大時代は彼の誘いを断ることの方が多かった。言ってしまえば、お互いが恋しくて夏まで待ちきれなかったのだ。だが、彼女が早く目覚めたのは恋しさだけではなかった。
 一時間半ほど高速を走らせ、ティナは目的地周辺に車を停めた。約束の時間まで一時間ある。記憶の中の場所へ、行ってみる。

 恋人との待ち合わせ場所は偶然にも、ティナが昔住んでいた場所に程近かった。
 彼女が少女の頃事故で両親を亡くすまで暮らしていた家は、既に別の家族が入っている。外壁の色や庭は様変わりしているが、建物自体はそのままであった。義姉や兄とであったり、一人であったり。何度か遠くから見た。幸せそうな家族だった。
 日曜の朝ということもあり住宅地は静かで路地には人の気配も少ない。却ってそのほうが良い。見なくてすむから、とティナは離れた場所から家を見上げる。
 数分何をするでもなくぼんやりと佇み、もう、私の家はここではない、言い聞かせて懐かしい家を視界から外した。早く行こう。家族が一人また一人起き出して、幸せな朝の音がしないうちに。
 立ち去り際、近所の家の庭からクチナシの甘い香りが鼻をくすぐり、はっと白い花を見る。あの植木は、まだあるのに。かつては通い慣れた通学路だった。この季節になると、毎朝通るのが楽しみで──。彼女は泣き出しそうになる。深く、深く息を吸って堪える。一度だけ振り返って、もう一つの目的地へと歩き出した。
 そこは家からは徒歩で10分ほどの距離があり、今日のように時間がなければ足を向けない場所だった。両親の死のショックが大きすぎてしばらく忘れていた、兄と二人、小さな頃のお使いの記憶。
 商店街に差し掛かる。開店前の閉まったシャッターが並ぶ通りを一度、二度往復する。外観が変わっている可能性が高い。踵を返してもう一度用心深く歩く。
 ……ない。どこにもない。潰れた痕跡すらない。いや、覚えていないのだ。店の名前と朧げな雰囲気以外何もはっきりとは。

 少し重い足取りで待ち合わせの駅へ向かうと、相手はまだ着いていなかった。
 駅前はあちこち七夕飾りが飾り付けられ、短冊が色鮮やかに揺れている。改札から出てくる相手を見つけやすいよう、ティナは広場の中心にある水の止まった噴水の縁に腰かける。時間が経ち水音がし始めてもなお、ひらひら風に流れる紙飾りを眺めては物思いに沈んでいた。
 時計の針が十時をさす頃、彼女の前に立ち止まる青年があった。
「珍しいね、ティナが先なんて」
「たまくん……おはよ、って言うのも久しぶりね」
「おはよう。晴れて良かった」
「そうでしょ。早く着きすぎちゃったから、ちょっと散歩してたくらい」
「それで? 三ヶ月ぶりだっていうのに、落ち込んでるのはどういうわけなの」
 やや緊張気味の軽口を気にする間も無くティナは一瞬、言葉に詰まる。すぐに笑顔を浮かべて、
「小さい時よくお使いに行ったお店がね、なくなってたの。話したことあったかしら……昔住んでた家の近くなの」
「ああ、覚えてるよ」
 正直に言う。彼に中途半端な誤魔化しは通用しない。
 ふーん、青年は詳しく説明するティナから目線を落として言った。小さい頃。彼女が両親と暮らした幸せな頃。彼女は覚えていて、彼には覚えていられないくらい小さい頃。
 彼がわずかに眉を寄せた理由を、ティナは同情からだと解釈する。
「仕方ないわ。随分前のことだし、今まで忘れているくらいだもの」
 ティナがくすりと笑みをこぼすと青年はそっか、と呟いて表情を崩した。
「手を繋ぎたいなら言いなよ」
「言わないと繋いじゃ駄目なの?」
「ほら、早くしないと置いてくよ」
 青年は歩き出しかける。ティナは少し迷って、結局手を後ろに回し握りしめた。青年は仕方ないな、また後でね、とでも言うように余裕の笑みをみせた。
 ティナが素直に、と言っても「心の準備」の後やっと好意をしめすようになってからというもの、彼は少々付け上がっているようにティナは思う。
「たまくん、最近意地悪になってない?」
「変わらないよ、僕は」
「そんなことないわ」
「ティナが気付いてなかっただけさ」
「そうかしら……」
 彼が自分に意地悪だったことなど、あっただろうか? 青年はティナが首を傾げる様をおかしそうに眺めている。
 春の夜突然訪ねてきたあの時は、今までで一番意地悪で正直な、むき出しの感情に触れさせられた。けれども七つの時からティナの記憶に鮮やかに残る彼は、いつも正しく利発な少年だったのだ。
 幼少の思い出に浸っていると、あの頃よりも随分大きくなった手がティナの手を包んだ。温かい掌から伝わった熱は、瞬く間にティナの頬を桜色に染め上げる。だからまだ繋ぎたくなかったのに、と彼女は目を伏せた。
「手をつなぎたいなら、言ってくれないと……」
「何か困ることでも?」
「……!」
 反撃したつもりが逆に顔を覗き込まれてティナは戸惑う。面白がっているのが腹立たしい、やっぱり意地悪だ。しかしよく知るはずの青年の顔立ちは、近くで見ると驚くほど整っているのだった。出会った時から大好きな新緑の瞳に、通った鼻筋、そして唇。困ることなんてたくさんあって言えない。ティナは何か言おうと口を開いたまま更に頰を染めた。
 彼が縋るような目で抱きついてきた夜。あの夜、自分のしたことが頭をかすめて頰に血が集まってしまうのだ。早く答えを出せ、とぎりぎり心臓を突き刺してくるような青年の目が怖かった。視線で心が破れてあふれてしまうのが怖かった。
 彼は恩人だ。子供の頃共有した時間を思うと、彼が自分を傷つけることなどありえないと思う。ならばと望まれるだけされるがままになった。元より彼にされる何事にも嫌悪はなかった。突き放すふりをしても心は離れがたく、試す真似をしてしまった自分が悪いのだ。
 結局、長年想っていたことも今も好きなこともティナが一番知られたくない形で知られてしまった。本当に、死んでしまうくらい恥ずかしかった……。思い出したくないことまで蘇り、ティナの頰はますます熱くなるばかりだった。

「はは……、ティナ、大丈夫?」
 どうしたものか。可愛く怒られるのを期待したのに、何を思い出したのか熱っぽく見つめられたのち耳まで赤くして恥じらわれてしまい、青年はぎこちなく笑った。見ると喉元まで薄紅に染まっている。
 彼は彼で繋いだ手指の柔らかさに浮ついてしまう己を恥じているなど、ティナには想像もつかない。ティナの手が自分のそれより熱いことに気が付き、何となく察した青年はぼそりと自惚れてもいいのかな、と零した。
「ティナ、あのさ、肩が出てる」
「……? そういう服なの」
「見ればわかるよ。風が強いから何か羽織ってきたらよかったのに」
「平気よ」
 ティナはいつもと雰囲気が違っていた。
 彼女の可憐さが不安になるほど強調され、落ち着かない気持ちになるのだ。緩く結った髪やイヤリング、白く滑らかな肩の下で揺れるドレープもスカートの裾も、ひらひらと風に吹かれどこか心許ない。妖精みたいだと青年は思いながら、しゃらりと揺れる大振りなイヤリングを凝視した。どうしてか目が離せない。見慣れないからだろうか。というより、見慣れていたものが帰ってきて懐かしいような、不思議な感慨だった。
 おかしいなと首をひねる青年の気も知らず、ティナは変かな? とくるりと回ってみせる。スカートが花弁のように広がった。
「変じゃないよ。可愛い。全部可愛い」
 ありがとう、とはにかむ彼女はとにかく可愛い。おまけに良い香りがする。シャンプーよりもわずかに強い、覚えのない香りだ。
「香水付けてる?」
 上気したティナからほのかに立ちのぼる香りに気付くと、彼は真顔で問いかけた。青年はティナの変化に敏感だ。
 ──まさか男でも出来たのか?
 青年は慄いたが、そんな相手は自分以外にいるはずがないと頭を振る。そしてはたと気付く。気付いてしまった。今日ティナが身につけているもの──服やアクセサリー、下着に至るまで、すべて彼と会うために選んだものだと。
 恋人になる前二人で出かけたことはあった。遊びや買い物、何かしら目的があったから気に留めなかったのだ。今このときが、初めて互いが互いに会うための逢瀬だった。髪の一筋からつま先まで、目の前のティナまるごと一日自分のために存在していると自覚した時、彼女をまともに見られなくなる。
「たまくんは、かっこよくなったね」
 自分への言葉にはうんありがとと生返事し、今まで香水なんてつけたことなかったよね、どうしたの、と威圧感を与えない程度に詰め寄る。彼女のすべてを理解したつもりはないが、知る限り香水はつけなかったはずだ。
「うん、気分転換に買ってみようかなって。おかしいかな……?」
「合ってると思うよ、ティナに」
 特に理由はないと知り、青年はほっとしたように言った。

 ──合ってる、私に。やっぱりそうなんだ。
 ティナは嬉しくもあり、悲しくもあった。彼女の困り笑いを照れ隠しととったのか、青年は彼女の手首に鼻をすり寄せ、うん、いい匂いだよ、と繰り返した。ティナはそれを複雑な思いで見る。
「そこにはつけてないわ」
「……えっ? 本当? ごめん」
 相手に敏感なのはティナもまた同様だった。青年が話す言葉のイントネーションのわずかな変化に、少しの不安をおぼえる。

 その香水に彼女が出会ったのは数ヶ月前、春先のことだった。
 青いパッケージに、淡いブルーの瓶。今も愛用しているエプロンと同じ色に、ティナの目は釘付けになる。吸い寄せられるようにガラスケースの前に立ち、眺めたあと、思い付いて香りを試す。頭の中に、一瞬風景が広がったような気がした。
 ティナは香水を付けない。職場でも禁止されている。必要ないとその場は立ち去るが、通勤で店の前を通るたび目で青い瓶を探す。
 ティナがそれを見つけてから購入するまで、優に三か月は経っていた。
 見た目通りの淡いブルーを連想する、清らかな草花の香りは周りに好評で、彼女自身も好きな部類に入る香りだ。しかしティナはこの香水が苦手だった。通常、香水は気分を高揚させるが、これは心のノスタルジックな部分を刺激し過ぎる。自分も知らない胸の奥の記憶に、嗅覚を通して直接訴えかけられるような香りだった。
 私を忘れないで──例えるならば、乙女が月のない晩に、恋の成就を願うひたむきさ。身に付けてふと香りが立つと、わけもなくその儚さに涙しそうになることすらあった。香りも長くは持たない。まるで自分の恋のようだとティナは思った。
 だからこそ彼と会う日には、おまじない代わりにつけることに決めたのだ。そして仕上げに。

「花の匂いだよね。なんて名前? 僕も知ってるブランドかな」
 来た。ティナは内心びくりとする。
 言ってしまったら終わりだ、半ば本気でそう思っていた。
「ええとね……」
 耳元に囁こうとして片手を口元にあて呼ぶと、青年は首を傾けた。その肩に背伸びをして手を掛ける。ちょうど顎が肩に乗るくらいの身長差がティナには嬉しい。青年は彼の兄くらい長身になりたかったと嘆くが、彼の長兄は百九十を超えるほどの長身だ。それほど身長があっては、肩に顎を乗せるなどという話ではない。三ヶ月ぶりの逢瀬、良く顔を見たいのだ。
 だからこんなこともできる。耳元に向いていた顔を首筋へ向け、ふ、と唇を落とす。
「っあ、…なっ!? え? ティナ、」
「……ひみつ」
 青年には、喉から自分の声が出るまでが長い一瞬に感じられた。柔らかく触れられた箇所から記憶はざわりと開き、呼び覚まされる。
 ──誘って、いるのか。
 時期が来るまで抑えておこうと誓った衝動が、今夜にも噴き出してしまうのではないかと、青年は喜びの中に焦りを抱いた。
 信じられないものを見るような表情の彼の心中をティナは知るよしもなく、にっこりと微笑む。おまじないはまだ終わっていない。
 ティナにとってはある種の願掛けだが、青年からしてみれば誘惑だった。それも、築いた堤防にヒビを入れるのに十分な。
「早く話してたかき氷屋さん、行きましょ」
「え? いきなり?」
「だめ?」
「いいや、悪くないね。でもその前に駅ビルで羽織りもの見てこう」
「私の? いらないわ」
「ダメ。ティナのことだから冷房効いた店の中でかき氷食べたら寒いでしょ。帰りだって夜だし」
「……わかったわ」
「よし。かき氷のあとは予定通り食べ歩き、それから浴衣借りてお祭り見よう」
「楽しみ……! 帰りは送らせてね」
「それ本気? 往復してたら日が変わっちゃうだろ」
「? 駅までのつもりだけど…」
「…ちょっと勘違いしただけ、何でもないよ」
「いつかたまくんのところへ遊びに行くわ、私。だってそのために…」
「はいはい、冗談だから早く行こう」
 思い違いに顔を赤くする青年にそんな、と膨れてみせながらもティナの足取りは軽やかだ。甘い物も魅力的ではあるが、目の前に青年がいることに浮き足立つ。
 台風一過の空は青く晴れ渡り、雲の流れは速い。星が見えるといいが、と青年は思う。また風が強く吹いた。


 ふわっふわの泡状の苺ソースが大量にかかった口溶けの良いかき氷は、大変にティナのお気に召した。お気に召しすぎて二杯目を注文しようとするティナを止めるのに骨が折れた。これ以上食べたら寒いよとかお腹が痛くなるとか次が入らなくなるとかあの手この手で引き止めるがティナは引き下がらない。寒いのは得意だしお祭りでかき氷三杯食べてもお腹痛くならなかった等と細い眉を釣り上げて反論してくる。これは手強いとすぐさま携帯端末で地元で同じものを食べられる店を探してやったことで片がつき、青年は胸を撫で下ろした。ティナの決めたら譲らないところは嫌いじゃないがちょっと勘弁してほしいな、と思いながら。
 日の落ちる頃、浴衣の二人は星祭りを満喫していた。夕闇に浮かぶ明かりとたなびく吹き流しが、幻想的な雰囲気を醸し出している。
 ティナが今朝方つけたコロンは消えかけていた。彼女本来の匂いと混ざり、浴衣の袂からほんのりと香っている。確かに良い香りだったが、今の方がずっといい、と青年は思う。会った時は余裕の態度だった彼は、どこかそわそわしていた。短冊を笹に括りつけ苦笑する。
「こういうの信じないんだけどね」
「たまくんは昔からそうよね、なんて書いたの?」
「……来年はもっと忙しくなるんだ」
 青年はティナの問いには答えず言った。
「来年は秋から留学する。その次の三年次からは教職課程だから、それまでにやっておきたいことがあるんだ。今年の夏はバイトして稼いでおきたいし……これからもこうやってティナと会いたいから、さ。それに本は読んでも読み足りないから」
「今しかできないことだもの。私、とっても素敵だと思う、あなたのこと」
「ん……、ティナは?」
「私も秘密」
「元々は裁縫とか芸事の上達を願ったんだって」
「じゃあお裁縫と歌もお願いするわ」
 よくばりだなあ、青年が吹き出すとティナも笑った。灯籠の火を灯したティナの瞳が、青年の方を向くたびきらりきらりと瞬く。祭りの行われる宮は高台にあり、目下に広がる街の灯と遠く広がる海にティナは見とれた。
「きれいね……」
「曇っちゃって星見えないけどね」
「残念ね。曇りだと織姫と彦星は会えるのかしら」
「さあ、見えないとこでいちゃついてるんじゃないの」
「そうだといいわね」
「……手、つないでいい」
「! ふふ、ちゃんと聞くのね」
「だっ……もう! 言わなきゃ良かった!」
 差し出された手をとらず、ティナは小指に嵌めた指輪を撫でる。可愛い人。
「ちょっと待ってね、お願いするから」
「お願いって……」
 青年は言いかけたが、ティナが目を閉じ手を堅く組んだのを認めると口を慎んだ。やがてゆっくりとその手に自身の手を重ね、闇に沈んだ海を見据える。さあ、と風が笹といくつもの願いを揺らした。

 ──……一緒にいたいの。だから、秘密。
 ティナはぎゅっと目を閉じる。願う。指輪に、曇り空の向こうの星々に。
 お願い、お願い──…お願い、します。

2019.07.13