流れ星になりたい

「カフェオレ……やっぱりブラックにする」
「またかお前は。ここをどこだと思ってやがる酒を頼め酒を」
 ティナがカウンターでコーヒーを頼むと、バーの店主は渋い顔で答えた。
 酔いたいんじゃないの、と最近妙に色気づいた客は物憂げに入口の方を見る。視線の先では、泣き出しそうに重い夜空がドアの小窓に小さく切り取られている。

「だって、セッツァーのコーヒー美味しいんだもの」
「だもんじゃねえ出禁にするぞ。ったくお前が来ると店の雰囲気がガキっぽくなって仕方ねえ」
 そもそもコーヒーはメニューにない。カウンター内のコーヒーマシンは店主のセッツァーが自分で飲むためのものだ。常連から眠気覚ましにと頼まれて淹れることもあるが、月に一度来るかの相手に開口一番言われても応えようとは思わない。

「私もう二十五よ」
「そりゃあ悪かった。お嬢さまは“もう二十五歳”だったな」
「……悪意を感じるわ」
「眠れなくなるぜ」
「いいの。淹れてくれるのね? 嬉しい」
 時刻は夜八時を過ぎたところで、客の姿は少ない。薄暗い店内にビリヤード台は一台きり、ほかはダーツが数台と、年代物のスロットがいくつか。表向きは静かに飲みたい客向きの、ひっそりとした店だった。
 夜が更けるとセッツァーはバーテンダーを代わって地下二階へ引っ込む。この店に階下があることも、地下で何が行われているかもティナは知らない。知らなくていいことだ。
 ……暇だから相手してやるか。文句を言いながらも、セッツァーは冷蔵庫を開く。生クリームを取り出し適当に泡立て始めた。

 セッツァーとカウンターを挟んで差し向かうティナには、特に深い縁はない。
 何年前だったか、「冒険遊び場」のキャンプに誘われて渋々ついて行ったことがある。

 冒険遊び場とは、元は廃材置き場から始まり、今や世界中に広まっている子供の遊び場の総称だ。プレーパークとも呼ばれているが、整備された公園ではない。廃材や自然の素材、道具や工具を使い、子供が自分の責任で自由に遊ぶことを主旨とした場所だ。
 セッツァーはその遊び場を主催するNPOに協賛の、地元企業の社長と知り合いだった。荷物が多いから車を出してくれと言うので、めんどくせえと思いつつも付き合いで夏のキャンプに参加した。

 そこに指導員のアルバイトに来ていたのがティナだった。遊び場では、ノコギリで端材を切って何を作ろうが落ち葉で焼き芋をしようが自由だ。だが「自由な遊び」には多少の危険を伴うため、指導員が必要というわけだ。

 それ以来、ティナはセッツァーが店をやっているというので時々通ってくる。
 セッツァーも意外と怒りっぽい彼女をなんとなくからかいながら相手している。気楽な仲だった。
「ストーカーはもうウロついてないのか」
「ええ、被害届も出したし、引っ越したから大丈夫。ライトさんが管理してるアパートなのよ」
「そうか。鍵は手ん中に隠して帰れよ」
「それ、姉さんにもたまくんにもよく言われる……三秒で家に入れるようになったわ」
「あと一秒縮めてみろ」
「それがねドアが重くてなかなか難しいの」

 近況を問いながら、セッツァーはコーヒーを淹れてやる。ティナが何か思う所ある時に店を訪れることを知っているのだ。
 ずらりと強い酒ばかりが並んだ背面の棚から、ウイスキーを一本選び取る。ザラメを入れたグラスにウイスキーを少量注ぐ。ついでに、氷を入れた自分のグラスにも同じ酒を注ぎ、一口飲む。なめらかですっきりとした後味は飲み慣れたセッツァーには少々物足りないが、ティナにはちょうど良いだろう。

「これから本降りだぜ。家でその、彼氏にもらった紅茶でも飲んでろよ」
 紅茶が好きなティナは、誕生日に好きな金木犀の香りの紅茶をプレゼントされたと嬉しげだ。小指のリングに目を落とし、弄りながら言う。
「夜はね、思い出しちゃうから……」
「ケッ! 一丁前に女の顔するようになってよ。ケッ!」

 セッツァーは悪態をつきながら、温めてザラメを溶かしたグラスに熱いコーヒーを注ぐ。その上に生クリームが浮かぶのを見たティナが歓声を上げた。
「ケッて二回言った……あっ! ホイップクリーム!」
 サービスしてくれるの? と目を輝かせて言うティナに、店主はすげなく答える。
「いいや、料金分払ってもらう」

 ティナは、あの時キャンプに来ていた少年と付き合っている。彼女に誘われたから来ただけだと言い、大人共がチェーンソー手にツリーハウス建設に大はしゃぎしているのを冷めた目で見ていた少年。最後には皆と一緒になって、服の色がわからないくらい泥だらけになっていた。
 青春だな、とセッツァーは自分もシャツを汚して笑ったものだ。あの後から彼を見ていない。

「あいつはどうしてんだ」
「うん、まだ留学中」
「サロニアだったか。いつまで?」
「先月から二月まで。あと二ヶ月ね」
「そうかよ、ほれ」
 ティナはありがとうと取っ手のついたグラスを受け取る。
「いただきます……お酒入れたわね⁉」
「カクテルだ。飲んでみな」
「わぁ、甘い…あったかいカクテルなのね。おいしい…!」
「留学先で浮気の心配か。飽きるほど聞いた話だな。そうなる時はなるもんだ」
「…はぁ……すごくあったまる」

 まろやかな冷たいクリームと、体を芯から温めるアルコールのきいたコーヒーを堪能しながらティナは聞こえない振りをした。カラフルな光を明滅させるスロット台を横目に見ては、機嫌良さそうにしている。
「ここね、後ろが静かにざわざわしてて落ち着くの」
「カフェにでも行ってろ」
「うん……でもセッツァーはここにしかいないし」
 頭をがりがりと掻くと、セッツァーは大きく息を吐いた。
「ハーッ、お前はなあ、すぐそういうこと言うから勘違い野郎に付きまとわれんだよ」
「そうかしら。ビリヤードの球の音も好きなの」
「面倒事に巻き込まれたくなきゃ、あのチビ以外に好きとか言わないほうがいいぜ。そういう意味じゃなくてもだ」

 なまじ顔がいいから質が悪い。おまけに自覚無しときた。ティナの態度にイライラしてきたセッツァーは口煩くなる。
 ティナが来店する前から奥でビリヤードをしていた強面の客が、ちらりとティナを見、セッツァーへ目配せした。この店でティナのようなフワフワした女は珍しいのだ。そして店主が客に目をかけることも珍しい。セッツァーはもう一人の客を睨み、そんなんじゃねえ馬鹿とでも言うように、フンと鼻を鳴らした。

「気をつけるわ。ヴァンが越してきたから、少しは安心なの。あとたまくんはもうちびじゃないわ」
「ヴァン……あのボーッとしたパイロットか?」
「知ってるの?」
「何度か来たことあるな」
 数ヶ月に一度ふらりと来て、二言三言話して帰っていく。黙って飲んでいるから寡黙な奴かと思えば、喋ると印象の変わる掴み所のない男だ。

「うん。お隣なんだけど、出張でほとんど部屋にいないの」
「隣? これ心配してんのタマネギの方じゃねえのか…向こうから、連絡は」
「時々……忙しいみたい」
 それきり沈黙が落ちた。
 かすかに流れる音楽に、時折、後方でキューがかつんと球を撞く音が散る。ティナが残り三分の一ほどになったカクテルを、惜しむようにちびちびと飲む。こくりと喉が鳴る音が夜の空気に乗っては消えていく。

 さめないコーヒーがほしい。
 ぽつりとティナが言う。ずっと冷めなければいいのにと、ずっと、いつまでもと。
 アルコールでティナの頬が染まっている。コーヒーの湯気で、目が潤んでいる。そうセッツァーは思うことにする。

「飲み終わって、ああ美味かったな、温まったな、と思うだろう」
「うん」
「だからまた明日も飲みたくなる」
「まあ俺の場合は酒だがな」
「セッツァーはもう少し控えたほうがいいんじゃないかしら。そのグラスお酒でしょ?」
「そんなに会いたいなら、帰ってきたら車飛ばしてすぐ会いに行きゃいいんだ」
「そのつもりよ、でも、」
「待てねぇってんなら海越えちまえ」
「それはちょっと……海か、飛べたらいいのに」
 恋人には言いそびれたが、ティナはいつか遠く離れてしまう想い人のために車の免許を取ったのだという。俺には言うのに、相手には言わない。いじらしい娘だ。セッツァーは柄にもなく世話を焼きたい気分だった。

「それはな、北国の飛行場で生まれた酒だ」
「飛行場?」
「ああ。昔は長く飛べなかったから、中継地で一旦降ろされたんだ。想像してみろ、極寒の港だぜ。乗客が給油を待つ間暖かく過ごせるようにって、コーヒーに酒入れたのが始まりだ」
「そう、なの…飛行場かあ。お酒って面白いのね」
「だろう?」
「次来るときはお酒を頼むわ」
 そうしな、とセッツァーもグラスをあおる。

「こんなとこでクダ巻いてるより、帰って通話すりゃいいじゃねえか」
 思いつかなかったと言うように、ティナは目を丸くする。
「つながるかしら」
「繋がらなかったら金木犀で残念会だな」
「もう!」
 思わず上がった声は、保育士をしているからか店内によく通った。
 ティナは赤面して失礼、と座り直す。

「お茶は、明日の朝飲むわ。彼のこと思い出して、一日頑張れると思うの」
「そうかよ。で? 惚気だけか、今日は」
「……ううん。私、森と列車の遊び場に戻るつもり」
「何だそりゃ」
「忘れちゃったの? キャンプに来たでしょ」
 そういや件の遊び場はそういう名前だった。セッツァーは森の中に引退したでかい列車が鎮座していた風景を思い出す。子供だの遊び場だの、自分とは世界が違いすぎて、真っ先に記憶から抜けていったのだ。はーん、それでとセッツァーは先を促す。
 
「昔バイトしていた時楽しくて、それが忘れられなくて。プレイワーカーの資格は学生の頃取ったからすぐ働けるし、学校に行けない子たちの力になりたいの。私もそういう時期が、あったから」
 放課後の子供の居場所は、その実、昼の間学校にも家にも居づらい子供の居場所としても機能しているという。
「好きにすりゃいいじゃねえか」
「ふふ、ありがとう」
 セッツァーは返事が適当でたすかるわ、とティナが笑う。
 
「資格って、あそこにいた奴ら全員専門職だったのか?」
「全員ってわけじゃないけれど。子供たちがやりたいことを思いっきりできるような環境をつくる仕事なの」
「あー、じゃああの子供みたいな奴も?」
「…バッツのこと?」
「やっぱあいつか! 大きいガキかと思ったらプロかよ。 バッツ・クラウザー、知ってるぜ」
「そうなの! バッツはすごいのよ、国外の遊び場をいくつも飛び回って講習会開いたり、兼業で写真家もしてるの」
「ああ。空の写真が目に留まってな。どこかで見た顔だと思ったんだ。個展、良かったぜ」
「えへへ…そうでしょ……」
「お前が照れてどうする」
 ティナは自分が褒められているかのようににこにこと照れる。揺れる頭に合わせてポニーテールがゆらゆらと振れた。

「だって知り合いが褒められると嬉しいわ。バッツは憧れなの。昔から何でもできて」
「へえ。初恋か?」
「違うわ。私は初恋も、今も、……」
「わかったわかった。結局惚気じゃねえか」
 ごめんなさーい、と明るくのたまう客は、普段より数倍フワフワして見える。カクテルの酔いが回ってきたらしい。
 ティナがふと表情を無くし、空になったグラスに目を落とす。

「ねえセッツァー、体はぽかぽかするけど目が冴えてきたわ」
「コーヒーくれっつったのはお前だ。一晩中あいつのことでも考えてな」
「もう帰る」
「帰ってきたら、連れて来いよ」
「……そうする!」
 少年が、ティナに寄ってくる男に分かりやすい牽制をする様子はおかしいったらなかった。どんな男になっているか、見てみたい。
「一杯奢ってやる」
 目元を緩ませ、楽しみ、ありがとう、ごちそうさまと礼を言ってティナは席を立つ。

「まったく、本当はモーグリハンターになりたかっただのバカ言ってた娘が「彼」だと! 男に会いたくてアンニュイたぁ、殊勝なこったぜ。……俺も年取るわけだ」
 外は雨が降り出したようだ。折り畳み傘を取り出す横顔が、ドアの隙間に消える。
 傘もオレンジ色か、よほど金木犀が好きと見える。何か思い出があるのだろう。セッツァーは特に知りたいとも思わなかった。
 ここは、飛び疲れた者の中継地点だ。飛び立ってゆく者にいちいち構ってはいられない。だがセッツァーは、彼女の心が晴れると良いと思う。なるべく早くに。
 半地下のドアがからんと音を立てて開き、ティナと入れ違いに一人、また一人と客が訪れる。濡れた小窓の闇に一瞬、車のライトが滲んだ。

2021.3.7