金色の草原

 こんな引き止め方しかできないのは、今から彼女に要求することを後ろめたく思うからだろうか。

「……久しぶり。孤児院を切り盛りしてるんだってね」
「ええ、いろいろあって……でも楽しいわ。本当に久しぶり! 私、手紙を書いたのよ」
「さあ。見なかったよ。ティナは、自分の子はほしいと思わないの」
「自分の……? 私には皆が言う『特別な人』はいないわ。それに、私は──」

 数年越しの再会だというのに、路地に引き込み負い目を利用する。

「ところで……こっちに戻ってからは僕を想って、してくれないの」
「……なに?」
「森の中であんなに呼んでくれたじゃないか 僕のこと」
「何のこと……」
「…すごくきれいで、恐ろしかった」
「…………! あなた……あなた、全部知って、いつも待ってたの…」
「相変わらず嘘がつけないなあティナは。覚えてるんだね」


「ずっと聞きたかったんだ、どういうつもりだったのか」
「何も……何もないわ。ただあなたが浮かんだから」
「……ふっ、はは、それでよくあんな白々しい手紙が書けるね」
「あなたが見ていると思わなくて」
「ずっと君のそばにいたんだ。気付かないわけないでしょ」
「ごめんなさい、あのことは……私のことは、忘れて」
「忘れようとしたさ」

 何も。こっちだって何も期待しちゃいなかった。もとより何もないのなら、壊れるものもない。

「協力するから取引しないか」
「取引?」
「君にとっても悪い話じゃないと思うけど」
「……」
「さっきの話。試してみればいいじゃないか。ティナと、僕とで」
「…………!」

 彼女は瞳を見開き首を振る。こんなことは、大事な仲間からは教えてもらえなかったのだろう。

「宿の一番奥の部屋」
「……?」
「いる夜はカーテンを開けておく。好きな時に来なよ。ゆっくり話をしよう」
「……あなたは嘘が得意になったのね」
「ああ。君のおかげで」

 数日後の夜更け、控えめにドアがノックされる。思ったとおり彼女は誘いに乗ってきた。身体を繋ぐだけならば、簡単なことだった。




 ◆◆◆




 青年がティナの前に現れて二月半が経つ。
 関係を持った当初、「子を成すのにそれは必要なのか」と問いたげに彼の愛撫を受けていたティナは、今や無意識に腰を揺らすまでになっていた。
 胸を弄ると小振りな尻が揺れる。商売女のようにわざとではないのをわかっている分、からかってやりたくもなる。指摘するとびくびく身体を跳ねさせて我慢しているのがおかしい。愛らしいと思っていたのに、青年は口に出して少し後悔した。

 彼女の素直な反応は好ましかった。
 行為がここまで快感をともなうとは思っていなかった戸惑いと羞恥が、汗に髪の張りつく額に浮かぶ。
 彼女が二度と自分との交合で得た以上の快感を感じることがないように、誰と行為に及んでも自分を思い出すように、あらゆる快感を覚え込ませるつもりだった。
 事が終わってそれとなくどうかと聞く。
「よく、わからないわ」
 彼女は眉を寄せて答える。早く欲しいと懇願させるにはまだ少しかかるだろう。


 程なくしてティナは性器を潤ませてすがりついてくるまでになった。感情の希薄だったころの印象とは違い、生来素直な質らしい。
 挿入は柔らかく蕩けさせた後、身体を撫でてじっくりと焦らしながらの挿入を楽しむか、または思いきり突き立てるのがお決まりだった。彼がこの世界に来るのを待ち望んでいたかのような具合に視界が明滅する。粘膜を擦るたびに彼女の口からもれる声、異世界での呼び名が彼の思考を溶かしてゆく。

 頸を甘く噛みながら、最初のころより十分に解れ柔らかくなった奥を執拗に突く。すすり泣きを聞き流し胎内に子種を注ぎ込む。
 絶頂にひくつく襞を味わいながら盗み見ると、恍惚の表情を浮かべている。森の奥で見た、乱れる声、姿と重なる。ずっと欲しいと思っていた。だがこれではない。手に入れた途端に違うとわかった。
 子を成すという提案とは別に、彼女は贖罪のために身体を開いている。自分たちの心はどの点でも重なっていない。

 ◆◆◆

 ティナを買っていると宿の親父に誤解された。
 彼女の姿を見た酒場の飲み客の間で、いもしない娼婦の噂が流れている。
 昼間に姿を現したティナを見て、青年は薄く笑った。

 カーテン越しの月明かりでは、彼女の来訪に喜色を浮かべようが情欲に歪んだ表情をしていようが知るすべはなかった。
 それは今室内にあふれる白昼の光に晒されており、彼は思わず窓から顔を背けた。この後に及んでまだ彼女に嫌われまいとしている。今さら何を取り繕っているのだろう。彼女はとうに自分を軽蔑し切っているのに。

 傷付いて泣いているティナを犯すというのは、悦び以外に他ならなかった。
 背筋が震えるほどの興奮を悟られないよう慎重に、頬をつたう涙と、人が泣く時特有の熱を唇で吸い取る。涙の軌道を辿って赤い目元を舐め、抵抗する手を抑えて唇を吸った。手のひらと体を彼女の薄い皮膚にひたと押し当て、灼かれるような身体の熱さを確かめる。口角が上がるのをこらえ、努めて優しい表情を作る。

 ひどい言葉を浴びせているにも関わらず、彼女の内側は彼に隙間なく吸い付き、抽送すれば離すまいと一層絡みついて愛撫してくる。見ろ、僕らの相性はぴったりじゃないか。喉に笑いが込み上げる。掻き抱いて心にもない台詞を思うさま囁きたい気分になり、彼は名前を呼んでごまかす。

 教えた淫語をたどたどしく口にしながら達する姿を、青年は息を吐き見下ろす。体液が染み付いて取れないよう念入りに襞に擦り込む。無駄な行為と思えど、せずにはおれない。
 悦楽に身を任せていた彼女は視線に気がつくと、いつものように夢から覚めた顔でうつむいた。彼も過去の幻から覚める。そうしているうちに新たな欲望が首をもたげ、渇き切った旅人のように繰り返し彼女を飲み干した。



 ◆◆◇



 眠ってしまった。
 ティナははっと身を起こすと暗い室内を見回した。夜明け前だと知ると胸を撫で下ろす。
 隣には先刻まで交わっていた青年が眠っている。
 体液にべとついた身体は彼が拭き清めてくれたらしい。乱暴なのか丁寧なのかわからない。きっとシーツが汚れるのを嫌うからだろう。ティナはため息をつき、髪を結い直す。

 カタリーナが起き出す前に戻らなければ。青年のことはまだ話していない。朝の早い彼女と鉢合わせでもしたら、逢い引きかと目を輝かせ次々質問してくるはずだ。自分たちの関係は、カタリーナが考える甘く美しい恋愛とはかけ離れている。

 衣服に袖を通しながら、ティナはぼんやりと青年に目を落とす。
 体つきや雰囲気は変わったものの、眠る面差しはいまだあどけなさを残している。
 瞳に情欲を燃やし彼女を嬲る青年とは別人のようだった。けれど冷たい目をしていたわる手つきに、ティナはいつだか甲斐甲斐しく自分を世話してくれた少年を見た。

 記憶の中で光に透けて輝いていた濃い金髪は、長旅で日に焼けたのか白っぽくなったように思える。逢うのはいつも夜だった。この髪が朝日に透けたら、どんな風にきらめくのだろう。
 起こさぬよう、そっと髪に触れてみる。もっと近づきたくなり、ティナは息をひそめ青年の隣に横たわる。

 近づくと鼻先に先ほどまで自分を包んでいた男の匂いがする。汗の混じるそれは幾度も交わりティナの身に馴染みつつあった。その奥に懐かしい匂い。彼のぞんざいな物言いや態度と裏腹な、草原を渡る風と大地、日の匂い……この世界が一度失った、みずみずしい、生命の匂いだ。ティナは大破壊後、緑へのあこがれの日々を思う。
 あの頃青年に会ったならば、きっと一も二もなくその胸に飛び込んでしまっただろう。もっとも彼はそれを許しはしないだろうが。

 自分たちの間にも、うたたねに寄り添う無邪気な季節があった。それはもはや異世界の風より遠い昔に思える。すべては変わった。ティナのせいだった。あの明るく健やかだった少年を自分が鬱屈させてしまったのなら、途方もない罪だ。罪は償わなければならない。
 青年は愛など無くとも子は成せると、試してみればいいと言った。ではこの感情は何なのだろう。これだけでは愛とは呼べないのだろうか。青年となら、彼の子ならば、かまわない。

 ティナが人だったなら、青年が会いに来ることもなかった。人であったなら、そも出会うこともなかったのだ。
 ティナの胸に重い、鉛のような感情が流れ込む。この感情は知っている。後悔。何を悔やんでいる? 異世界での、別れのあの時、伝えていれば。……何を? 言うべき言葉も見つからないまま、何を伝えればよかったのだろう。

 窓の外が少しずつ白み始める。
 いつもならとうに宿を抜け出している時間だ。薄紫から鴇色ときいろを経て黄味がかる空は、雲海へ誘うようにティナを寝台に留まらせる。あと少しだけ、今日だけは夜明けの光にけぶる髪を見ていたい。わずかに震えた睫毛にティナは唇をゆるく結ぶと、柔らかな金色の草原を指で梳き、黎明を待った。

2022.9.10