肉交なき恋は、事実にあらずして幻想なり

 今にして思えば、恋だったのかもしれない。
 「あのこと」以来、彼女が自身を慰めるのを秘かに待ち、聖域まで手を繋いで帰るのが習慣になった。行為の最中は気配を察知する能力が鈍るらしく、僕が息をひそめていても気付かない。イミテーションに不意を突かれたら、ひとたまりもないじゃないか。いつも僕がいることに疑問を持っているようだけど、何も言ってやらない。僕は彼女を守ると決めたんだ。こうするより他にない。
 
 ふらついた足取りの彼女を迎えるのは僕でなければならなかった。もし他の仲間が心配して探しに来たらと思うと、ぞっとする。彼女の桃色に染まった首すじに、性的興奮を覚えない男がいるだろうか。たとえ彼女の全裸を見ても眉ひとつ動かさないであろう一人を除いて、その他は……何があるかわかったものじゃない。少なくとも僕は、彼女の普段とは全く違う甘い声や、それに伴う記憶が事あるごとにちらついて、時々どうしようもなくなるというのに。何せ彼女が呼ぶのはこの僕なのだ。皆、こういう時、どうしているのだろう。考えたこともなかった。知らないところでうまく処理しているのだろうか。

 隙あらば僕を構おうとする手を払いのけ、テントでひとりきりの時間を確保するのは、そう容易くはなかった。自然、水浴びの時か彼女が行為に及んでいる時にするしかなくなる。いけないとわかっていても、止められない。こんなことをいつまでも続けられない。
 彼女が積極的に僕に触れようとしなくなったことは幸いだった。もしも今までのように抱き締められたり触れられてしまったら、平常心で振る舞えない。周りは、元よりそういった扱いを良しとしなかった僕に原因があると思っているらしい。好都合だった。
 クラウドだけは、時折あの不思議な色のひとみで僕と彼女を観察するように見る。僕に並んで彼女といる時間が長かった彼なら、異変を感じてもおかしくはない。気付いていて、僕にまかせてくれているのだろうか。それとも試されているのか。
 
 彼女の行為が純粋に僕を想ってではなく、魔力の暴発を抑えるための本能的な行動であると気付いたのは、程なくしてからだった。大体、おかしいと思っていた。だって彼女は、僕らに懺悔しながら慰めている。少し残念に思う気持ちと同時に、僕はほっとしていた。自分と彼女が結ばれることはないだろう。しかし、切なげな声と強引に握った手のひらの熱さ、羞恥の表情、僕の存在が彼女をそうさせている事実、それらは十分に心を満たしてくれた。

 ふらりと野営地を離れた彼女がことに耽っているのは毎回ではない。見晴らしの良い場所で遠くを見つめ考え事をしていたり、かと思えば暗い森の中で膝を抱えている事もあった。それは大抵、戦闘でトランスの必要がなかった日で、彼女の感知能力も通常どおり働いていたため、頃合いを見て迎えにいったり、隣に座ってなぐさめたりした。勿論ヘンな意味でなく。彼女は誰に聞かせるでもなく、ぽつりぽつりと呟く。力があふれて、あまりにあふれて体がおかしいの。
 スコールが聞けば贅沢な悩みだと鼻を鳴らしそうだなと思いながら、大丈夫だよ、僕がついてるから、と言うと彼女は困ったように笑い、目を伏せて首を小さくふった。背中をさすろうと手を伸ばすと、ビクリとしてそれきり一言も発しなかった。──前は、もっと近くに座っていたのにな。

 彼女の元気がないことに、皆うっすら気付いている。旅の初期から付き合いのあるクラウドはもちろんだが、以前から彼女に対して兄のように接していたセシルとバッツは、とりわけ気にかけているようだった。彼女と二人が揃うと、何というか、他の仲間といる時とは少し違う感じがする。僕がウォーリア・オブ・ライトとフリオニールといると、なぜか少し肩の力が抜けるというか、安堵するのに少し似ている。元いた世界、いまだ何も思い出せない僕の体にしみついている習慣や常識に、近しいものを感じるからかもしれない。
 セシルの存在自体が彼女に癒しを与えているようだし、バッツは「暴走したって、おれが何とかしてやるから安心して暴れればいい」といった風情でのほほんとしている。彼女にはそれが心地良いようだった。現に、今も二人の肩にもたれて安らかな寝息を立てている。
 悔しかった。僕はセシルもバッツも一人の戦士として尊敬している。(これは絶対にバッツにだけは知られたくない。なぜって、しゃくだから)でも、それが恋ではないにせよ彼女の心を占めているのは僕だし、秘密を知っているのも僕だ。彼女を救うのは僕でありたかった。いついかなる時でも。
 負けられない。二人に相談を持ち掛ける。名乗りを上げた僕に、彼女がふわふわした前髪の奥で一瞬、表情を強張らせるのを見た。かれらの側が安心するというのなら、いったいどういうつもりで僕を呼ぶのだろう? 暗い森の中、ひとりきりで。  

 僕が知りうる限りの魔力の制御法を手ほどきし、抑えきれない時は好きに暴れさせるやり方が功を奏したのか、あるいはトランスに慣れて来たのかその両方か、彼女が誰にも秘密にしている行為は回数を減らしていった。彼女と僕の魔法の使い方は根本から違っていたが、別の方法を知ることは手数を増やすことに繋がる。今の状況を変えたいと願っている彼女は良い生徒であったし、僕にとっても良い鍛錬になった。
 力の解放と制御を自分のものにして自信がついたのか、徐々に笑顔が増え一人塞ぎ込むことももうない。表向き僕らは何の変わりもなかった。遠慮がちに「ありがとう……あなたのおかげよ」と言われ舞い上がってしまう。こんな笑顔を向けられるのは久し振りだった。このまま何もかも上手くいけばいい。  

 ──トランス状態のまま自慰する彼女を見たのは、その頃だった。
 あたりはなぎ倒された木や岩でめちゃくちゃだった。所々火の手が上がっており、熱気をはらんで渦巻く暴風の残りかす──その中心に彼女はいた。
 致命傷ではないが手傷を負っている。治癒の魔法を使いもせずに、獣じみたしぐさで溢れる血を舐める舌は赤く、瞳の焦点は合っていない。血に酔っている。正気に戻して、回復してやらなければ。僕の足は動かない。
 
 ゆるやかに変身をときながら行われるそれは、異形の者とヒトとの淫靡な交わりを見ているようだった。
 くるる、と喉を鳴らし身体ををくねらせると、発光する薄桃の体毛と白金と緑の髪がきらめき、混ざり合う。細い指が裂け目をなぞり、朱に濡れた唇が歓喜にわななく。獣の爪で果実のごとく色づいた先端を弾けば、乳房がふるえ、なめらかな白い腹が波打った。絶えず歌うように嬌声が漏れ、雫をこぼしてひくつく秘部は水音を立てる。
 駆け寄って、「それ」を自分の思い通りにしたい衝動に駆られる。だが、立ち竦んで動けない。目を逸らすこともできず、乱暴に性器を擦る手だけが意志を持っていた。むせかえるほどに甘く濃密な血と魔力の匂いに朦朧とする。この世でこれほど美しいものは。
 強烈な性感とともに精液が飛び散るのもかまわず、目の前の光景をぼうっと眺める。炎からのがれた草木が、彼女の気にあてられ異様な速度で成長し、奇妙な形の花実をつける。彼女の傷はあとかたもない。
 その日、僕は一人で帰還した。
 人の姿で優しげな笑みを湛える彼女が恐ろしかった。僕は彼女に魅了されている。

 彼女のすがたが脳裏に焼き付いている。忘れることはできないかもしれない。
 正直に言うと、当初彼女は汚れのない存在だと思っていた僕は、少なからずショックを受けていた。(思いの先が僕だったことで大分軽減されてはいたが)それが、先日見たものの衝撃で半ば吹っ飛んでしまった。汚れているとか清らかだとか、そういうことではなく、彼女が純粋な、一個の生きものである証明、を見た気がした。
 一方で、どこで知ったのかわからない知識が大半の僕の頭、奥底に眠っていた伝承がよぎる。美しさと歌声に心を奪われて近付いた者を廃人にするという、半人半鳥の妖魔。彼女は怪物なんかじゃない。苦しんで、苦しみ抜いて、人であろうとしている。側で見てきた僕は知っている。だが、あの姿。心のどこかでもう一度あれを見たいと願っている。  

 彼女が戸惑いなく僕の手を取ってくれる。微笑んでくれる。それだけのことが嬉しい。
 僕と彼女の関係はまったく元通り、いやそれ以上に強い絆になっていた。僕らだけでなく、仲間全員がかけがえのない存在だった。ただ一つ、彼女が僕に深い感情を見せないことを除いては。
 僕らが初めて出会い、クラウドと共に旅していた頃、僕と彼女の間には確かに透き通った清冽な空気があった。
 今ではそれは半透明の薄い膜に取って代わられ、彼女の秘めたこころを覆いかくしている。こちら側に伝わるのは濾過された仲間としての親愛だけだ。避けられていた頃を思えば、彼女が笑ってくれるだけで十分だとも思う。けれど、僕らの間にはそれ以上の何かがあったはずだ。いつか三人で渡った小川のせせらぎのようにくすぐったい何か。
 彼女の態度が僕に負い目を感じてのものだとしたら、全てを打ち明け、気に病むことはないと言いたかった。だがもし彼女を傷つけることになりはしないか、決定的な亀裂になりはしないかと考えると、どうしても行動に移せなかった。

 迷いを捨て凛々しく戦う彼女を見ていると、あのことは僕が彼女にとって特別だと思いたいがために見た、夢かまぼろしではないかという気さえしてくる。混沌との戦いは激しくなる一方だった。決戦の時が近い。彼女とゆっくり話をしたのはいつのことだったか。

 

 結果、僕らは勝利した。
 抜けそうな膝を踏ん張り見渡すと、方々で快哉が上がる。みな、疲れ果てた様子だが表情は明るかった。近づいてきたティーダと他愛ないやりとりを交わす。お互い傷だらけのぼろぼろで笑いあった。はじめは共通項の少なさから敬遠していたものの、親しく話すようになったのは彼の快活な性分によるところが大きい。もうふざけ合うのも最後か。最後くらいたまねぎと呼ぶのはやめてほしい。
 他の仲間が集まってきた。振り返ろうと頭を動かすと視界が揺れ、ティーダの腕に倒れ込む。血と汗が目に染みて涙が出た。彼女が走ってくるのが見える。無事で、良かった。
 神は別れを惜しむ間も満足に与えてはくれない。一人一人、手短に握手と抱擁を済ませる。フリオニールは汗臭かったし、野郎と抱き合う趣味はねえよと笑うジタンの、手袋を外した掌は燃えるほど熱かった。ウォーリア・オブ・ライトが締めの言葉を口にする。この人がいたから僕らはここまで来れた。激励に胸が熱くなる。バッツの一声により、話終えてしみじみとした面持ちの光の戦士を全員で揉みくちゃにした。

 ふと振り返ると、彼女が僕を見ていた。背伸びして煤に汚れた頬を拭ってやりながら、どうしたのと促す。彼女の心からの言葉ならいくらでも欲しかったし、いつまでも待つつもりだった。伝えたいが何と言ってよいのかわからない、という表情でためらう彼女の透明な眼差しが、じっと僕に注がれて気恥ずかしさを覚える。長く見つめ合うことなど、もうずっとなかった。会ったばかりの頃は、よくこんな風に見つめられて居心地の悪い思いをしたものだ。懐かしいな。
 彼女の体が少しずつ空中に溶け始める。
 ながい逡巡のあと、ティナのまぶたが諦めたようにゆっくりと瞬きする。僕の頬をすっと冷たい指で撫で、「──さよなら」とだけ残して光の中へ、消えた。  

 

 ***

 

 これで僕の話は終わりだ。
 約束通り、詩歌でも話の種でも好きにしてくれて構わない。
 歌にしづらい話で悪かったな。何でって、誰にも話した事がなかったから、整理をつけておきたかったんだ。
 危うき幻獣の娘がどうなったかって? これからそれを確かめに行くところさ。
 ……信じてないな。悪いけどもう行くよ。じゃあ、また会えたら続きを。  
 

 青年が酒場を出ると、夜が明けようとしていた。薄紫の大気を吸い込んで酔いを醒ます。
 所在なげな吟遊詩人に一曲頼んでみれば、ひどい音痴でちょうど良かった。気紛れに立ち寄った世界といっても、あまり個人的な話を広めて貰っては困る。席を立つとき早くも船を漕いでいた男を思い出し、あの様子なら気にすることもなかったか、と彼はかぶりを振った。
 彼女はどうしているだろう。僕を覚えているだろうか。あれは、現実だったのだろうか。最後の瞬間、何を言おうとした。
 ……ティナ。数年振りに唇にのぼらせる名前の、想像以上に胸を締め付ける甘苦い余韻に苦笑する。なんだ、未練がましい。だがそうでもなければ、幼かった自分に爪痕を残した相手を探したりなどしない。もっとも、それはもはや恋ではない、と彼は思う。執着。復讐。何と呼べばいいか。
 熱く柔らかだった手にもう一度触れ、彼女の閉ざされた心を暴き、昏い悦びに浸る。よわいを重ねるほどにいや増す身の渇きは、そうすることでしか癒せないと彼は確信していた。渇望。そうか。
 かつてオニオンナイトと呼ばれた青年は身を翻す。寂れた辺境の町に似合わぬ青い風が立ち、あとには舞い落ちる砂だけが残った。

2014.08.04