きえゆく声

 秋の夜更けのことです。
 ざあざあと雨が屋根を叩く音に、焦ったように戸を叩く音が加わって、ティナはうたたねから目が覚めました。

 戸を開けると、旅の男がずぶ濡れで立っていました。
「すまないが一晩泊めてもらいたい」
 見たところ疲れ切って、背中には子どもをおぶっています。とにかく中へ、とティナは男を招き入れました。

 旅人の子は熱があり、足をくじいていました。
 ティナは急いでかまどを温め、湯をわかし、男に体を拭く布を渡します。
 子どもは、年の頃が十ほどの女の子でした。湯を含ませた布でからだを拭いてやり、おでこを冷やすために子どもの前髪を上げてティナは一時、動きを止めました。
 旅人が怪訝そうに見ています。

「……なにか?」
「いえ…かわいい子ね、早く熱が下がるといいわ」
 ティナが男のほうを向いて言うと、今度は旅人があっと固まりました。

「ティナ?」
「えっ?」
 旅人はあわてて、壁の絵にティナママと書いてあると言い、ティナはびっくりしたと笑いました。

 突然の訪問者に驚いた家の住人が、次々と顔を出します。若夫婦とその子ども、年のばらばらな子どもたち何人も。男はその数に驚きました。
「この子たちは……ここは…?」

 若夫婦のカタリーナとディーンが答えます。
「モブリズの孤児院の話、聞いたことない?」
「ティナはフィガロでは聖女って呼ばれているんだってさ。あんたもそのくちかと思ったよ」

 ティナは、先の戦争で子どもだけになったこの村を救った聖女だと噂されていました。
 何年も経ったいまでも、その話を聞き付けた者がぽつりぽつりと赤ん坊や子どもを預けに来るといいます。
「あなたのような若い人に子どもを預けにくるなんて」
「あら、そうでもないのよ」
 ティナから聞いた年齢は女ざかりの頃でしたが、旅人にはまだ若い娘のように見えました。


 旅人も、娘と同じ空き部屋に寝床をあてがわれました。
 無理をしていたのでしょう、ふらついて背中に取りすがる旅人に、ティナは安心したのねと微笑みます。男はただ、ありがとうと言い眠りにつきました。
 旅人の消耗ぶりは、ティナに旅をしていたときのことを思い起こさせました。たとえば魔法で精神力を使い果たしたときのような。そんなことを考えながら、ティナは眠る二人をしばらく見ていました。



「助けていただいてありがとうございます」
 目を覚ました旅人の娘は、父とよく似た若草の瞳をしていました。
 大きく利発そうな瞳に、美しい金髪。
 ティナは、あまりにびっくりして息が止まるほどでしたが、何におどろいたのか自分でもわかりませんでした。

「あなたがあんまり綺麗でおどろいたのね」
 ティナが笑うと、娘は照れて、あなたの髪も見たことないきれいな色、とはにかみます。
 旅人はそのようすをちらりと見て、歯がゆそうに娘の足に手を当てました。

 娘が歩けるようになるまで、旅人は村で働いて過ごすことにしました。さいわい、秋は冬ごもりの準備でいそがしく、働き手が増えて困ることはありません。
 旅人には剣の心得がありましたので、雨で手すきのときにはディーンや男の子たちに稽古をつけました。

 旅人の娘は、大人たちには礼儀正しくしていました。ですが、急に子どもだらけの村に放りこまれて戸惑うのか、彼らの前ではつんと澄ましていました。
 ある日、女の子たちと男の子たちが言い争いをしています。
 娘はかしこさと正義感から女の子たちをかばい、仲良くなりました。男の子たちとは話せばけんかばかりです。そうやって、すこしずつ打ち解けていきました。



 秋の盛りがやってきました。
 大人と年上の子どもたちは村の畑で野菜や果実を収穫し、小さな子どもたちは木の実を集め、桶いっぱいのぶどうを潰します。

「ここまでくるのに、自分たちでまかなえるようになるまで大変だったの」
 りんごの木の上から、ティナが丘のぶどう畑を眺めて言います。落とされるりんごを麻袋で受けとめながら旅人が労わりました。
「苦労したんだね」
「私、ぶどうを育てたり、動物を飼うなんてそれまでは考えもしなかったから……きゃっ!」

 足をすべらせたティナを旅人が抱きとめると、ティナの頬がりんごの色に染まります。それを間近で見てなお、秋の夕のせいだと男は思いました。

 秋の実りに感謝して、ティナとカタリーナがこしらえた、りんごと木の実のタルトを皆で囲みます。
 楽しく飲み、食べ語らいながら、故郷を離れてから、一つ所にこんなに長く居るのは初めてだと旅人は言いました。
 故郷とはいったいどこなのでしょう。
 小さな村だと男は言いますが、それは仲間と世界を旅したティナも知らない土地の名でした。



 冬が近づいていました。
 その秋いっとう冷える晩、旅人とティナは温ぶどう酒で暖をとっていました。

「あの子の足もすっかり良くなったよ、本当にありがとう」
 ティナはうつむいて、いいえ、私もとても助かっているから、と答えます。
 温められたティナの細い肩が腕にふと触れて、もう行かなければ、と男は思います。

「このままここに、いてくれたらうれしいのに」
 ティナは願いますが、旅人はゆっくりと首をふって言います。
「それはできない」
「みんなあなたが好きだし、私も……」

 男は意を決して、君は、旅人相手にいつもこんなことを、とたずねました。
 ティナはひどく傷ついて、こんな気持ちは、あなたが最初で最後だと思う、とふるえる声で言いました。あなたは、なつかしい感じがするから。
 男は、光栄だが最後とは限らない、と答えてティナの額に口づけました。



 冬の初めの日、親子は村を発ちました。
 雪がちらちらと降り出し、今日でなくともと皆引きとめますが、男は決意を変えません。
 それぞれ別れの抱擁をして、旅人の娘は涙をうかべ友だちからの贈りものを抱きしめています。

 見送りのため、すっかり皆外へ出てしまった別れ際のことでした。
 男はティナの前につと立ち止まります。
「ティナ、元気で」
 そう言うとティナの顔まで背をかがめ、今までの礼におまじないをとささやきます。

 ――君に護りを。幸せであれ、と男のくちびるが動きます。
 それから、ティナの知らぬ世界の魔法を、幾重いくえにも幾重にも。戸口に立っていた娘は目を見開いて父を見ています。
 透明で温かな膜がティナを包むたびに、周りの音が消え男の瞳しか見えなくなっていきます。このりりしく聡明な瞳を遠い昔、ティナは知っていました。

 ふと、音が戻り、見回すと部屋には誰もいません。
 われに帰ったティナは待って、と外へ飛びだしますが、親子はもう発ったあとでした。



 旅人と娘は、戸口で見つめるティナたちに一度だけ手をふり歩き続けます。つめたい雪風が旅人の耳を刺し始めたとき、風にのって声がしました。

 ――……さようなら、オニオンくん

 旅人が振り向くと、降りしきる雪の向こうで、ただ窓の灯りがあかるく燃えています。
 かすかな、雪の溶け消えるような声だったので、聞きまちがいかもしれません。でも、男はそうは思いませんでした。

「父さま、あの人のこと好きでしょ」
 娘がはっきりと聞きます。
 だって、よその人にあんなことするなんてと頬をふくらませます。
 剣でも魔法でも名の知れた戦士だった父を、娘は誇りに思っていました。おぼろげに理解している旅の使命も。

「……いや。昔好きだった人に似ている」
 娘が、それって母さまよりも昔? と笑って聞いたとき、男はもう遠くを見ていました。



 村では、窓からずっと彼らを見送っていた子どもが、ティナを振り返って叫びます。
「ティナママ! 見て! 二人とも、魔法みたいに消えちゃったの」
「まあ、あの人、魔法使いだったのかもしれないわね」
 そのとなりで、娘といちばん仲の悪かった男の子がぽつりと言いました。
「冬至のお祭りまでいれば良かったのに。そのあと春まで、ずっとさ…」
「そうね……」
 ぼんやりと答えてから、ティナは夕飯のしたくをいつもより少なくしなければ、と考えます。
 そのあと春が来て、また何年が過ぎても、旅の親子がふたたび訪れることはありませんでした。

2021.12.29