#3 Growing

 風が強い。物見の塔の最上階にはティナと青年の二人きり。砂漠に囲まれたこの城で、視界を遮るものは四隅を守る細い円塔だけだ。その影から見渡す黄金色の先に、陽炎が別世界の幻影のように揺らめいている。
「フィガロに寄ったとき、よくここに来たの」
 つぶやいて遠くを見つめるティナの体を、青年は砂を含んだ熱風から自身のマントで覆って隠した。
「どうしたの、ティナ」
 図書室から自分の手をひいて逃げ出すように塔を駆け上がったのはなぜか、と彼は問うている。なぜだろう。ティナは答えを持っていない。考えながら言葉を紡ぐ。
「だって、あなたは私の……、…私の……?」

 楽しく話していたはずだった。
『一介の旅人が城の蔵書を読ませてもらえるなんてめったにないよ』
『バッツの世界の古代図書館も面白かったんだ、どのくらいいたと思う?』
『気づいたら一か月経ってたんだ。こわいでしょ』
『結局その後二か月いたしね。でもまた行きたいな、読みたい本がまだ山ほどあるから。どこからか湧いてるんじゃないかってくらい読んでも読んでも減らなくて』
『ふふ、一度に読もうとするなんてあなたくらいだわ』
『そう?あそこ魔物も出るし面白くてさ、あー、せっかく行ったのに何でバッツいないかなぁ! ティナも一緒に……』
 青年はとても嬉しそうだった。お茶を運んできた女官にも愛想よくしている。一方でティナはどこか落ち着かなかった。

 青年と再会して一年になるだろうか。
 ふらりと現れ、互いを懐かしみ、旅に誘われた。世界を渡る旅だ。心惹かれたがモブリズを離れるとなると、ティナは応えられなかった。
 別れ際、彼は「次はティナを少し貸してくれ」と子どもたちに言い放ったのだ。……驚いた。しばらくして本当にまた来たことにも。
 そんなわけで今、モブリズを出て二人旅をしている。
 彼は少年の頃より物静かで、ティナは新鮮さと不思議に心の落ち着く思いがした。かと思えば、不意の口づけに心臓を跳ねさせられる。顔も見えないテントの中、青年はごめんと言ってすぐやめてしまったが、触れた熱い唇は不思議と嫌ではなかった。


 久し振りに訪れたフィガロ城は賑やかだった。城の潜行の日と重なったこともあり、コーリンゲンからの乗客でごった返している。それを整理する兵士、水や食料を売る荷車。行きかう人びと。

 こんな視線。こんな、感情。
 城の者たちから注がれる連れへの視線。ティナは今では城で周知の存在だ。王の戦友であるティナが見知らぬ青年を連れているとあれば当然、大っぴらなものからささやかなものまで警戒、好奇、詮索、さまざまな視線に晒される。
 好奇や畏れの視線は身をもって知っている。そして旅の仲間、たとえばセッツァー、セリスやロックと訪れた時の、気安さや親しみともまた違う視線にティナは戸惑う。
 いつも優しい女官たちはみな、ティナと青年を見てあら、と目を輝かせ期待するような笑みを浮かべた。城に着いてすぐ湯浴みをしたためか頬がまだ火照っている。淹れてくれたお茶を半分飲み、ティナは立ち上がる。
「すぐ、戻ります。ええ、奥の塔へ……エドガーが来れそうなら教えて」

 言付けた女官はどうぞ、と快く頷いた。城の主には寄ったついでに顔を見に行くだけだから忙しければ優先してくれなくて良い、と手紙で事前に伝えてある。見送られる視線すら今のティナには居心地が悪かった。
 青年が後をついてくる。その手をひいて部屋を出て広間を抜け、奥の間から塔を登る。ティナが足を向けたのはこの城で唯一、視線を感じない場所だった。
 こうして振り返ってみてもまだ判然としない。見上げると、影になった暗いおもてに若草色の瞳が揺れている。ティナの言葉に何を感じているのか、青年の瞳は音もなく瞬くばかりだ。もっと見たくなって覗きこむ。

 ──と。
 ティナは砂漠のただなかで、土の匂いの風に波打つ草原に降り立っていた。乾いたようで瑞々しい、涼やかな風が首筋を通り抜ける。知らないけれど知っている、風の匂い。
 これが、青年だった。ようやくティナは思い至る。
「私、隠したかったんだわ」
 何を、と青年の口元が問う。
「……あなたを」
 こんなふうに、と青年のマントを閉じてみせる。

 はじめ青年、いや少年はティナの記憶深く心の中にいた。この世界で彼を知っているのはティナだけだった。
 やがて彼は成長した姿で現れた。
 その声、その姿、緊張した表情で教えてくれた本当の名前──。宝物みたいね、と伝えると目を伏せて照れた姿を、ティナは決して忘れないだろう。その名前すらも周りの知るところとなり、特別でなくなっていく。

「私だけの、あなただったのに──……“    "」
 名前を呟くと青年の瞳が見開かれる。
 大きくなるととてもきれいだ、見入っていると青年が視界いっぱいになり、キスされたのだとわかった。唇にするのはまだ慣れない。ティナは熱を移された自分の唇に指で触れる。

「きれい…」
 それよりも彼の瞳をよく見たい。
 背伸びをして見つめていたら、続けてキスされる。瞳を見ようと、唇が重なると自然と閉じてしまう目をこじ開けて熱心に見入るティナへ、キスは幾度も降り注いだ。
 どうしてそう何度もキスするのだろうとティナは不思議だった。でもキスするたびに青年の瞳は潤んで透き通り、その奥の風景は鮮やかさを増す。それを見るためなら、もっと、ずっとしていてもいい。

「ん……ふ、」
「……、このくらいにしておこう」
「……?」
 ティナの唇から声が漏れる頃、青年はさっと身を離した。
 熱く乾いた風が頬を撫でる。
 このぐらいが、僕らにはちょうどいいんだよと青年は目を細めて言った。熱気に当てられたのか頰が少し赤い。
「それに、ほら」
 青年と同じ方を向くと階下から使者があらわれ、図書室においで下さいと簡潔に告げて降りて行った。



 ◆◆◆



 書架の合間に、ブーツに包まれた細い脚と鍛えられたしなやかな脚が並んでいる。
 静かに絨毯を踏み二歩進むと、入り口の柱からは見知った翠緑の髪と、その隣に長い金髪を後ろで結わえた若者が目に入った。
 一見すると旅人風の軽鎧に長剣を佩いている。装束は似ているがどの地域とも違う組み合わせかた。ティナの言う通り、確かにこの世界の者ではない、とエドガーは見た。
 歴戦の戦士らしく目つきは鋭く、だがティナに向ける視線は柔らかい。モブリズからティナを伴って旅をするという時点で、何らかの感情を抱いていることに違いないだろう。ティナのほうは、お人好しでついてきたのか? それとも。
 本を開く青年の腕に白い手をそっと置き、ふわりと甘く目線を交わす。時折ちらと周りを気にしている。あのティナが。
「…ふむ」
 きわめて、親密。以前ロックから聞いた二人の関係性を上書きすると、エドガーはかつ、と音を立てて図書室へと続く短い階段を上がった。

「女官たちが色めき立っているから何かと思えば」
 こちらを振り向いた二対の瞳に、エドガーは眉間を揉まずにいられない。
 ほんの一瞬値踏みするような緊張した視線、エドガーはどう反応するのかと窺う視線。これは、なんというかまるで。

「私に娘はいなかったはずだが……」
「何言ってるのエドガー?」
「それよりティナ、そこの彼に図書室を見せるためで私はついでかい? 別に会わなくて良いなんてあんまりじゃないか」
 避難する口調とは逆に、エドガーの表情は朗らかだ。ティナが安心したように駆け寄る。
「エドガーが忙しいの知っているわ。お疲れさま、お土産を持ってきたの。村のみんなからと、私からも」
「ありがとう。君の笑顔で疲れも吹き飛ぶよ、もちろん、お土産も大歓迎だ」
 ティナの心遣いは素直にうれしい。本心から笑みを見せ、後ろに控えたままの青年に目をやる。旅慣れた印象だがティナより年若く、警戒を隠し通せていない。無理もない、周りに私のように魅力的な男ばかりいるのでは、内心さぞ焦っていることだろう。エドガーは初対面の相手にほんの少し同情すると同時に、悪戯心が湧きだすのを感じていた。

 まだまだ青いな、少しからかってやろうじゃないか。エドガーは紅茶を注ぎに来た女官に笑いかけ、ティナに向き直る。
「君たちが微笑ましいから皆の機嫌が良くてね。私も嬉しいよ、久しぶりだね」
「微笑ましい……」
 何か考えてうつむきかけたティナは、エドガーの広げた両手に気付いてぱっと表情を綻ばせた。細い体を軽く包み込むように、あくまで和やかな雰囲気のまま、引き寄せる。青年の眉がわずかに寄せられ、エドガーはティナの頭の陰で笑みを深めた。

 見たまえ青年、ティナは私に全幅の信頼を寄せているのだよ。
 抱擁を受け入れる彼女の背中をポンポンと叩き親愛を示すと、視界の隅で青年の指がぴくりと揺れた。ティナの腕が背中に回り、苦楽を共にした仲間をぎゅっと抱きしめたその瞬間。あっ、と声が出そうに青年の口が開くのが見え、エドガーは大人げなくも笑い出しそうになった。
「エドガーからハグなんて久しぶり!」
 ティナが不思議そうな、しかし子供のように嬉しげに弾んだ声で見上げる。もう機会が少ないと思うとしておきたくなるものだ。この娘は、いずれ。
 もう一度ティナの背を優しく叩いて腕を離し、瞬きする青年に片目を瞑ってみせる。彼はばつが悪そうに目を逸らしたが、切り替えが早いのかすぐ姿勢を正した。

「初めまして、陛下。私は……」
「ティナから手紙で聞いているよ、よく来たね」
「ねえエドガー。みんな見てたのは、私たちがなにか……特別な関係に見えたってこと?」
 エドガーで構わない、どうかなレディ、もしかして自覚があるのかい? とそつなく双方に微笑むと、他の部屋を用意させようかと提案した。ティナは私はどちらでも、と青年を見上げる。
「僕にとってはここで寝泊まりしたいくらい快適ですが」
 美味しいお茶菓子まで用意して頂いたことですし、と申し訳なさそうにする。形式だけの遠慮だとしても、自分の城を褒められて悪い気はしない。
「そこまで気に入ってもらえたなら、動くわけにいかないな」
 エドガーは破顔して二人に椅子をすすめ、人払いを命じた。

「話を聞きたいと思っていたんだ。前に来た来訪者はすぐいなくなってしまったからね」
「バッツのこと?」
「ああ。城を見せられなくて残念だったよ。潜行はどうだったかい?」
「驚きました……まさか地中から出てくるなんて」
 エドガーの読み通り、青年はどの地方の訛りとも違うくせのない言葉を話す。そして勘の域を出ないがわかる。一時は魔法を行使する側だった恩恵か、まとう装備品の一つひとつに魔力が込められていると肌で感じる。

「ところで君は元の世界の勇者だと聞いたが……教えてくれるかな?」
 青年は事のあらまし、二柱の神の争いと終わりについてと、彼自身の事をかいつまんで話す。隣のティナはというとフィガロ名物のひとつ、ナッツのシロップがけパイ包みをさくさくと頬張りながら相槌を打ち、時折補足を入れた。彼女の様子に旅していた頃が無性に懐かしくなるエドガーだが、彼の目的は思い出話とは別にある。
「神に近い者と戦った同類、というわけか」
 聞き終わるとエドガーは目を光らせた。
「信じてもらえるのですか」
「私も先の戦いで、城にこもっているだけではできない経験をしたからね」
 常人が聞けば夢か神話か作り話だ。ここに青年が存在していること、彼と記憶を共有しているティナが何よりの証拠だった。

 しばらく話した後、着いたばかりで話し疲れただろう、ゆっくりしていくといいとエドガーは二人をねぎらった。
「もう何を見ても驚かないと思っていたが、浮遊大陸にクリスタルの塔か。別の世界でも似たことがあるものだな……そうだティナ、ばあやが会いたがっていたよ」
「まぁ、神官長さまが! まだお会いしていなかったの」
「私はもう少し彼に話を聞きたいから、行っておいで」
「ええ、またあとで」
 ティナが青年に目配せをして部屋を出て行くと、エドガーは彼と差し向かった。テーブルの下、ベルトから下がる布飾りの中に、見覚えのある桃色がちらりと見える。
「何でしょうか」
「まあ、そう身構えんでくれよ」
 穏やかながら表情に警戒を滲ませる青年をなだめ、エドガーは足を組み直す。対座してみると、装備品がというより、それを含む彼自体から魔力が放たれているように思われた。これは……勘が正しければ、思ったよりいい反応を得られそうだ。
「ティナをどうするつもりかな」
「……連れて行きます」
「彼女から返事は?」
「まだ、はっきりとは。時間の問題です」
 彼はまっすぐこちらを見据えて言い終わると、ティナのリボンを目立たぬよう結んだ右腰に目を落とした。

「ずいぶん自信があるようだね。ときに君は、密偵の経験はあるかな」
「……? シーフなら少し」
「それは奇遇、私も盗賊の頭をしたことがあってね」
「はあ」
 エドガーはジャム入りの焼菓子を一枚つまみ取り、怪訝な表情の青年に君もどうだいと勧める。先程より乾いた声で遠慮する彼を横目に、クルミが隠し味なのに、とさも残念そうに自身の口に運ぶ。それから紅茶のおかわりでも勧めるような調子で続けた。
「では、本題に入ろうか。魔力が必要かな?」
「……どういうことでしょう」
 面食らって探るようにエドガーを見る青年へもう一度、そう身構えんでくれよと微笑み、紅茶をゆったりと含む。
「簡単に言おう。がれきの残骸で、魔力が観測された」
「……!」
「興味が湧いてきたかい?」
 一言で気配の変わった青年を、エドガーは満足そうに見て笑った。

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