精液まみれの手が二人分、ぬるぬると僕のものを包んでいる。被害を食い止めようとした努力は徒労に終わってしまった。
「ごめん……」
 二人して汚れた性器と手のひらを拭う。申し訳なさで彼女の方を見られない。ティナの前で暴発し、その上目の前で思いきり達して、今日僕は何一ついいところを見せていない。いや、悪い所しか見せていない。
「本当にごめん…っ!」
「ううん、私が見せてほしいって頼んだからだもの」
「ほら」
 ティナの口元に向かってティッシュを差し出す。反応が返ってこないので振り向くと、何のことかわからないという表情をしていた。
「…出しちゃったでしょ。口の中に」
「あ……びっくりして、飲んじゃった」
「全部? …そ、そっか」
「でも貰うわ、なんだか、くちの中が…」
 口をもごもごと動かして言うティナにティッシュを渡して後ろを向く。あれだけ出したんだ、やはり喉にこびりついて不快なのだろう。口に当ててけほけほと咳をしているのが居たたまれない。

「もう大丈夫、ありがとう」
「……全然大丈夫じゃないね」
 二度目の射精の後、初めてまともに向き合う。えへへ、と照れて笑う彼女の顔は白い粘液に汚れ、つややかな肌にどろっとした筋がいくつも流れている。頬に額に、小さな鼻の頭に、唇の端から垂れたままの精液。睫毛を縁取る涙の雫。ぞくりと暗い征服感が走った。僕が出すところを、顔を真っ赤にして世にも卑猥なものを見る目で見ていたティナは、自分そっちのけで僕の腰回りを拭いている。早く彼女をきれいにしてあげないと。そう思えど、まだ少し鑑賞していたい気分だった。ティナには悪いが、頬や額をできるだけゆっくり、擦らないように拭う。濁った体液の下から透明に上気した肌が現れる。単純な動作を繰り返すうち、今まで腹の底でちりついていた焦燥が不思議と和らいでいくのを感じていた。なにか、何か言わないと。彼女の手を握りしめ、意気込む。

「ティナ──…!」
「なに…?」
「…っ……ええっと…」
 結婚してくれ! ──…とっさに出掛かった台詞を、この状況で求婚する滑稽さと学生という身上を思い出して飲み下す。
「なんでもないよ……」
「変なの…ふふ」
 ティナは笑ってこちらに顔を寄せると、涙の半分乾いた目尻を指で撫でる……バレていた。
 
 大きめの部屋着を借り、冷蔵庫から飲み物を取って立ち上がることができないティナに渡し、喉をすすいで自分も一息つく。それから電子レンジで蒸しタオルをつくってもう一度丁寧に後始末をする。エプロンを脱がそうとしたところで、ティナが思い出したように慌てた。
「あっ…! 待って!」
 エプロンの胸ポケットから素早く何かを取り出し、固く握りしめて後ろ手に隠す。
「……見せて」
「だ、だめ」
「いいから」
 手首を捕まえ指を一本ずつゆるめて開く……と、光が現れた。”安っちい“、ピンクの輝き。これが今ここから出てくる理由に考えが至り、彼女に視線を向けると目尻をさらに染めて顔を逸らした。
 手紙に忍ばせた指輪だった。手のひらのそれに触れてみる、体温が移ってあたたかい。
 ここに、あったんだ。ずっとここに。僕が笑っている気配を感じてか、彼女はまた手を握りしめて胸に当て、絞り出すようにいった。

「私が勝手に、好きでいるのは……っ、好きでいたって、いいでしょ……!」
 よほど恥ずかしいらしく語尾はふるえ、言い終わるとぽろりと涙をこぼした。本当の気持ちを伝える時って、どうして涙が出るんだろうね。返さなきゃ、って思ったんだけど。彼女が語り出す。
「私、保育士の仕事が好きよ。子供達は可愛いし、楽しいわ。……でもね、一日働いて、夜うちに帰ってこれを見ると……ほっとするの」
 疲れて家に帰り、指輪をはめて心を和ませるティナを思い浮かべる。……良かった。まだ僕は、ティナの『いいこと』で居れている。
「なら、僕が好きでいるのだって自由だ」
 彼女の小指にリボンを模った指輪をはめながら言う。少し緩いが抜け落ちるほどではない。結び目にピンクの石が付き、指輪もピンクがかった金色で想像通りよく似合う。ジタンに買い物に付き合ってもらって本当に良かった。誕生石なんだよ、と色々話したくなるが今は我慢だ。

「たまくん……」
「手紙に書いた通り、僕にはティナが隣にいない未来は考えられない」
 沈黙のあと、吐息と共に消え入りそうな呟きが聞こえてきた。
「………うれしかったわ、あなたがくれた手紙…これも」
 ティナはそう言い、左手を大事そうに包んだ。彼女の小指から幸せが逃げませんように。
「指輪のサイズがわからなくてさ、クラウドに聞いたら『本人に聞け』って言われちゃって…それは小指用だけど今度は、揃いのを用意するから」
 彼女のもう一人の家族に協力を頼むことも考えたが、かえって事態がややこしくなりそうなので、やめた。
 ティナの指をそっと撫でる。彼女は黙って撫でられた指を見、こちらを向く。両手を手のひらでぎゅっと包む。目の奥肺の奥、吐き出す空気も乾いて熱っぽい。
「夏休みには帰って来るから。だからさ、海行こうよ、二人で。ティナが嫌ならみんなででもいい。毎年集まってたのに、ずっと来てないよね? 僕と一緒なら、もう声掛けられたりしないよ。ねえ…」
 ダメかな、とティナを見つめる。握りしめた両手が汗ばむ。

「…………うん、…」
 困って、涙ぐんで、花がほころぶ。
 桜の花よりティナの笑った顔を見ていたい、って言えたらいいんだけど。
「あとさ、あの手紙破るかして捨ててくれないかな…すごく恥ずかしい事を書いた気がするんだ」
 夜通し書いた手紙の内容は、実はあまり思い出せない。しかしあれは確実に残していてはいけないものだ。
 指輪を指先で撫でながら、ティナがふんわり微笑む。
「…──だめよ。これと同じくらい、大切なものなの」

 あんまり幸せそうで絆されてしまったが、これだけは言っておかなければならない。
「…とりあえず、今後は男を簡単に部屋に入れないこと。ティナを好きな奴は絶対にダメだよ」
「たまくんは?」
「僕はいいんだよ。ティナは僕が好きなんだから」
「ふふ、おかしいの!」
「ティナは隙が多いよ、わかってる? キスだけでいいのにサービスしすぎだ」
「たまくんだから、したいと思ったのよ。上がってもらったのも」
「……っ」
 じ、と見つめられて慌てて顔を逸らす。これ以上この場にはいられない。
「まだ立てない?」
「ん、…うん…力が入らないの。はじめてのことばかりで、腰が抜けちゃったのね」
「そう。じゃ、行ってくる」
「恥ずかしいからあんまり見ないでね、おねがい…」
「任せて」

 洗濯前に脱がせたエプロンとタオルについた汚れを粗方落としておくため、洗面所へ踏み出す。ティナに背を向け照明の届かない廊下に出た途端、誰も見ているはずはないのに口元が緩むのを耐える。
 指輪が見つかったときの慌てぶりといったら! それにただ腰が抜けただけみたいに言ってたけど、立てないってつまり、そういうことだよね。腰が砕けるくらい気持ち良くなっちゃったんだろうか? 良かった僕だけじゃなかったんだ。にしてもキスと、口でしただけであんなになるなんて……正気を保った自分を褒めてやりたい。しかもおそらく自分が達したことに気がついてないと来た。頭にちらついていた開発とか調教済みとか、とにかく下衆な言葉を全力で脳内の地平線へ放り投げる。
 あいにくと僕はそこまで理性を失えない。なし崩しに関係を持つなど論外だし、もし彼女と恋愛関係になったとしたら段階を踏んで事を進めると決めていた。だから今日のことは……かなり予想外だった。上手くいけばもしかしたらキスくらいは、とは思っていたが。

 興奮覚めやらぬまま洗面のドアを開けると正面に洗面台、右手に浴室がある。自分で洗濯すると言ったらティナは這ってでも行く勢いで止めようとした。じろじろ見たりしないからと言って出てきたが、それでもまだ何か言いたげな様子だった。見られたくないものでもあるのだろうか。一見、特にどうということもない小部屋だ。半開きになった浴室のドアを何気なく閉めようとする。
「……!」
 隙間からちらりとハンガーにぶら下がる下着が覗き、急いでドアを閉めた。…これのことか。そして、ティナが隠したかったもう一つのもの。それは僕がインターホンを押すまで彼女の指に嵌っていた。(彼女は嵌めたとは言わなかったが、そう思いたい)きっと慌ててポケットに収めたのだろう。また口元が緩む。今夜ここへ来なければ、さっきの事がなければ、彼女は思いも指輪も胸に秘めたままだったのだ。

 洗濯物が見えなくなって一息つく。洗面台にエプロンを掛け、改めて見回すと初めて見る場所だというのにどことなく既視感がある。目立つものといえば、飾り棚に置かれた素焼きのポットから観葉植物の長い蔓が伸びている。ハート形の葉の葉脈に沿って薄いピンク色の斑が入っていて可愛らしい品種だ。昔同じ品種をプレゼントしたことがあったな。確かあの時は枯らしたと言っていたが、気に入ってまた育てることにしたのだろうか。小さな葉がポットから溢れ、蔓は一メートル近く垂れている。植物を育てるのがさほど得意ではないティナがよくここまで増やしたものだ。
 ほかには、鏡の脇に取り付けられたフックに普段使いであろうゴムや髪飾りが掛かっている。その中で異彩を放つのが、えらく派手な……シュシュ? 生地が薄くなり、色とりどりの糸でリボンやビーズが縫い付けられ綻びを繕ってある。単純に、よく見てみたくなって手に取ると、丁寧に当て布がしてあったり縫い目の揃った部分や糸の始末が甘い部分、修繕の仕方にばらつきがある。極彩色の糸の合間に見える元の生地は薄いピンク色。…この色どこかで。これって。これは。引っ掛かりを覚えて記憶の糸を手繰り寄せる。
 これは、僕が昔プレゼントしたものだ。いつだったか──僕が小学六年の時だから──六年前。何でこれがここに。見た目は随分変わっているが、記憶の引き出しからひょいと取り出してきたように見えた。

「………」
 再度、観葉植物を見る。昔ティナに贈ったのと同じ、ピンクの葉のハートカズラ。思い上がりも甚だしい考えが頭を占め始める。生き残った部分を植え替えた? まさか。これだって五年前だ。とは言え、ハートカズラは日当たりの良い場所を好む。日の射さないこの場所ではここまで葉はつかないだろう。日中は窓辺に置いているはずだ。窓のないこの部屋に移動する理由。甘い期待が背中を這い、推測が確信を呼ぶ。
「物持ちが良すぎるよ、ティナ」
 ここを隠すためにあんな、誤解を招くようなことをしたのか。自分の気持ちを知られず僕を送り出すために? 何やってんだよ、ほんと……。

 呆れるほどに真面目だ。かといって欲を捨て去ることも出来ずキスに溺れてしまう弱さは、変な奴に付け込まれないか心配ではある。ある、けれども。彼女の想いに胸が、胸の中の熱いものが締め付けられる。重くて苦しい、たまらなく甘い束縛だ。参ったな…呆れるやら嬉しいやら、感情のやり場がなく片手で口を覆う。周りの空気が冷えているせいか、触れた自分の顔が思いのほか熱い。鏡を見るとやはり顔どころか耳まで赤くなっている。心臓を落ち着かせようと息を吐きだし、シュシュを握りしめたままの拳を胸にあてると、こまめに洗っているのだろう石鹸とシャンプー、甘いティナの匂いがふわりと香った。思わず肺いっぱいに吸い込んでしまい、手摺のない高所から地上を見下ろすときのように指先がざわめく。細胞一つ一つに羽根が生えて空に霧散するような感覚に襲われ、それをなけなしの理性で踏みとどまる。このシュシュを渡したとき、ティナの胸に抱きしめられて初めて知った高揚。

 本当言うと、したい。ああしたいさ! めちゃくちゃにしてやりたい。だけど今ティナに近付くのは駄目だ。あんなものを見たら、確かめたくなってしまう。エプロンを外した際、それまで隠されていた内股が恥じらうようにもじもじと閉じられるのを僕はしっかり見ていた。もし上目遣いで一語でも、あまつさえ続きをお願いされたら、見かけ倒しの理性はあっけなく焼き切れていただろう。だが彼女は、熱い鎖骨に手が触れても目を伏せて息を震わせるのみだった。与えるばかりで何も求めようとしなかった。ティナは正しい。若さゆえの性欲に負けて事に及ぶなんてのは是が非でも避けたかった。恐れていたことが現実になってしまう。性欲を思慕にすり替えているのではないか、と。
 つい先程知ったばかりの濡れた唇や口内の感触が思い返され、心の中で謝る。服の下の肌の熱さ柔らかさ、意外にも艶やかな白の下着、キス以上の行為であげる声、考え出すと止まらない。淡白な方だと自覚していたが、ティナの事となると僕はおかしい。鏡の中の情欲にまみれた顔を見ずに済むよう、壁にもたれて溜息をついた。


 乾燥が終わるまであと数十分というところで戻ると、ティナは仕事場から持ち帰った書類に向かっている──ように見えたが、うつむいて両手で顔を覆っていた。ちらりと指の間から半目でこちらを窺う。眉間にぎゅっとしわが寄っている。
「なんて顔してるんだよ」
「………見た…?」
「ティナが見られたくないものは一通り」
 これ以上にやけないよう唇をかんでいる僕を見て、わぁっとテーブルに突っ伏す。それはそうだろう。あの部屋に諸々を隠したのは、僕がいつ何をあげたか記憶しているようなしつっこい奴だと十分承知しての行動だ。そんな奴にあの場所を見られてしまったらどうなるか。一巻の終わり、一生分の弱みを握られたも同然である。白い下着も繕いすぎてカラフルなシュシュも大事に育てたハートカズラも全部、全部見た。隣に座り、顔からおろした手の甲にそっと触る。
「これでまあ、おあいこだよね」
「なにがよ……うぅ…こっち来ないでっ…!」
 もし自分の立場ならこの世の終わりだ。観葉植物だって、何食わぬ顔して窓辺に置いてれば裏目に出なかったものを。不憫になったのでティナの頭をフワフワと撫でる。触れていた手を包み、強く握る。ティナの心は僕のものだった。多分昔からずっと一変の翳りもなく、だ。これが照れずしてどうする。こみ上げる笑いをかみ殺しきれず、柄にもなく「てへっ」なんて声が出てしまう。頬っぺた赤くして睨まれても全く怖くない。

 乾燥が終わっても離れがたく、どちらから言うでもなく額をくっつけて少し話したり、じっとしていた。
「ティナ、何でなの」
 何が、とは言わず問いかける。あなたに必要だと思ったから、だって。余計なお世話だよ。ティナに世話焼かれるようになったら僕はおしまいだね。ティナは笑う。毛糸越しに伝わる温もりに肩を預け、耳元で僕の名前をささやく声に聴き入る。この先どこへ行っても誰を好きになっても、あなたはあなたよ。何も揺らがないわ。私は少しだけ大人になって、私でいる。あなたを抱きしめて支えることだってできるわ。大丈夫。大丈夫よ。…知ってるよ、そんなこと。肩に顔を埋めているから僕の表情はティナには見えないしティナの顔は僕からも見えないが、どちらかの、もしかしたら両方の体温が熱いぐらいなのは確かだ。
 ティナが僕の髪に指をさしこみ、梳き、やさしく撫でる。その手を大人しく受けながら頭を撫でられて抗議した過去を思った。もっともっと重りを増やして動けなくしてほしいとすら思うのに、軽くするようなことばかりティナは言う。部屋の外からは雨音がするし、眠くもなってきた。こんな気持ちになることを彼女はどこかで分かって距離を置いたのだろうか。昨日まで胸に満ちていた将来の展望や新生活へのわずかな不安、期待、いっさいが、霞のかかるように遠く感じた。

2018.04.15