三月の桜

 生ぬるい夜だ。
 電灯に早咲きの桜がぼんやりと浮かび上がっている。毎年見ていたこの桜ともしばらくお別れかと、ペダルを漕ぐ足をゆるめて公園を横目に見た。見頃を過ぎ、どの木からも絶えずピンクの花びらが舞い落ちている。
 ティナと初めて会ったのもここだったな。確か小学校に上がる年の春で……天気のいい、暖かい日だった。あの頃僕の背は、足元で小さい白い花をしたたらせているユキヤナギの植込みにも満たなかったのだ。

 長い桜吹雪のトンネルが感傷的にさせるのか、過ぎ去る景色とともに思い出が現れては消えていく。縁側の陽だまりの中さかさかと色鉛筆を動かす華奢な手を、草花を見つめる真剣な目を昨日のように思い出す。あの植物観察は、両親を失ったティナにとって必要な作業だったのだろう。おそらく彼女の付き合いで始めた僕にとっても。

 二人とも小学生だった頃は、繁みに隠れてよく野良猫を可愛がっていた。猫をさわった手でうっかり目を擦り、雑菌が入って腫らしてしまったことがある。二人して泣いていると、たまたま通りがかったバッツが病院に連れて行ってくれた。その後帰宅したWライトさん(僕らは秘かにお互いの保護者をまとめてこう呼んでいた)に叱られたのは言うまでもない。
 それから風邪で家に一人でいるとき、ティナがお粥を作りに来てくれたこともあった。
 いつの間にか兄弟の不在を心配したバッツが来ていて、布団の中でうとうとしていた僕は、台所から聞こえた一言に目が冴えたのを覚えている。
『こりゃなめらかで旨そうな……糊だな』

 加減がわからず混ぜすぎたらしい。バッツの作ったお粥は卵と葱入りで美味しかった。……ちなみに糊は、ライトさんがちょうどいいと言って障子の張り替えに使った。そうそう、今度は寒い中頑張りすぎたライトさんが風邪をひいたんだった。昔からなぜかピンチの時はいつもバッツがいたような気がするが、彼は僕らの危機を察する第六感でもあるんだろうか? 彼ならこの状況にどんなアドバイスをくれるだろう。今は何でもいいから縋りたかった。

 ──あー…うん、お前らはな、昔からよーく知ってるが……ジタンパス、おれそっち方面苦手なんだわ、まあ頑張れ! 当たって砕けろ!
 砕けたらダメだろと突っ込みが入ったところで想像をかき消す。…そうだよな。
 公園を過ぎ、桜はもう見えない。この湿っぽさでは夜中にも降り出しそうだ。今夜で見納めか、あと一日くらいはもつだろうか。明日ありと思う心の仇桜、ってやつだ。時期も天気もぴったりじゃないか。一晩明けたら桜も初恋もキレイに散ってました、って全然笑えない。

 早い話が、僕は振られた。
 ……たぶん。おそらく。いや、まだそうと決まったわけじゃない。先日ティナへのバレンタインのお返しに、手紙を添えた。翌日に礼と仕事で見送りには行けないと連絡があった。七日以上経った今も、手紙についての返答はない。
 はっきりした答えを得るため、今僕は二駅分の距離を自転車で走っている。ティナに手紙を書いたのも、アパートを連絡なしに訪問するのも初めてだ。ティナから小さなメッセージカードを貰うことはあったがそういえば自分で書いたことはない。彼女にはいつも言葉にできない想いを抱えていた。十年以上の付き合いなのにいまだ初めての事があるものだ。それが増えるか否かは、今夜の行動次第で決着がつく。

 風を切って人通りもまばらな夜道を抜ける。どこからか飛んできた桜の花びらが唇に張り付き、取ろうとして上着を着忘れたことに気付いた。袖口から入る冷たい空気に肌が粟立つ。気が急いて眼鏡もかけたままだが、今家へ取って返したら挫けてしまう。あの桜の故事の通り、明日はないんだ。

 首都への進学で気がかりな事は、まず第一にライトさんだった。もう一人の兄ジタンは既に家を出ており、僕がいなくなれば彼は男三人で暮らしたあの家に一人住まいだ。
 土地や遺産の管理など、彼が本業以外にやることは多い。僕らの育ての母コスモスは資産家の一人娘で、破格で借りていた一軒家も実は彼女の相続した建物だった。コスモス…看護師をしていたが、なにゆえか仕事を辞めて養子を取り育てることを選び、そして事故であっけなく亡くなった女性だ。交わした言葉すら記憶になくても、注がれた愛情は自分の根本に流れていると今は感じる。ライトさんが彼女をたくましいと評した通り、自身に何かあった時の処理は抜かりなかった。発生する家賃収入だけで暮らしていける財産を全て、僕らに遺したのだ。現在も「雲」と呼ばれる女性──昔と全く変わらぬ容姿に恐ろしくて年齢を聞けない──に管理業務を依頼している。

 中学を卒業する頃それを聞き、もっと早く言ってくれれば大家業を手伝えたのにと不満をこぼすと、君はそう言うだろうから黙っていたのだと兄は笑った。更に高校に入っても自分の目標に専念しろというので、不動産投資に役立ちそうな資格を取ることにした。幸い僕は背が伸びて昔は死角になっていた家族共有の本棚の最上段に、ライトさんの本業とは関係ない資格のテキストを見つけていた。仕事以外の本に持ち出し許可を出したのは彼自身だ。ライトさんは詰めが甘い。そして何だかんだ僕に甘かった。苦虫を噛み潰したような顔と引き換えに、受験までの時間を資格取得に使う許しを得たのだ。

 手始めに宅建、FP、簿記、土地活用に有用ないくつかの資格を取得した。勿論高校でも剣道は続けた。部活と勉強漬けの毎日だったが、思ったより土地や資金管理の勉強が楽しく苦にはならなかった。大学を卒業したら、僕はこの町に戻るつもりだ。雲に協力を頼めば、ライトさんが担っている業務は代行できるだろう。ライトさんは資格はさほど重要ではない大事なのは誠意だ、なんて言っていたけど……思うに二足の草鞋は自分の方が向いている。こっちで就職先を見つければ兄の負担も減る。それまでは。

 兄であり育ての親を一人残して行く。母を喪って呆然としていた彼を再び一人にする。たとえそれが家族と自分の為でも、世間一般で言う故郷に母を残すような痛みがある。もしコスモスが生きていたら同じ離愁を感じただろうか? それはわからないが、僕の心配は見透かされていたようで、空の巣症候群で惚けているほど暇ではない、と軽く一笑されてしまった。でも僕は知っている。ジタンが独り立ちした夜、母の写真に語りかけていた彼を。僕がここを発つ日にもまた、母に報告するのだろうか。

 第二の気がかりは言わずもがな、ティナだ。去年ティナが一人暮らしを始めてから彼女の部屋へ行った回数は片手で数えられる程しかない。家の前まで送ることはあっても、中まで上がったのは一度だけ。僕自身、体が大きくなるにつれティナとの接触に抵抗を感じるようになった。彼女が嫌がりはしないか、僕が抱いている気持ちが知れてしまうのではないかと不安になる。そんな気まずさから二人きりになるのを避けてしまった。彼女も僕の気持を知ってか知らずか無理に家へ上げようとはしない。これが良くなかった。強引にでも口実を作ってティナの生活に立ち入るべきだったのだ。女性の一人暮らしは危険だとか料理が得意でないティナの栄養面が心配だとかもっと頻繁に電話をかけるとか、いくらでもやりようはあった。が、今となってはどうしようもない。

 人との関係は環境に大きく左右される。ティナが高校を卒業するまで、僕らの関係は浮かれるほどに良好だった。勇気を振り絞って電話で買い物や秋祭りに誘いクリスマスも過ごし、僕が中学で立ち上げたアナログゲーム同好会の、合宿という名の夜通しゲーム大会にもゲストとして家に呼び、二人きりでうっかりキスしそうになる嬉しい事故まであった。ティナの戸惑ったようなドキドキしてるような表情や体のあったかさ重みとか今でも思い出すくらいいい思い出だけど、同好会の面々になぜかティナへの気持ちがばれてて弄りがいのあるおもちゃ見つけた! ってあいつらの顔も同時に思い出して腹立つんだよな特にルーネス。ともかく、僕は調子に乗っていた。

 ティナが短大に進むと、講義と実習で忙しく個人的に会う機会はほとんどなくなり、イベントごとにしか顔を合わせなくなった。僕が十三の夏を最後に、毎年行っていた海へも来ていない。メールの返信が少しばかり遅くなり、遊びに誘っても十中八九断られる。その後僕は資格取得に部活に打ち込み受験勉強、彼女は保育園で働き始め、嘘のように疎遠になってしまった。帰りの遅い彼女が心配で駅まで迎えに行くこともあったが、そうそう時間があうものでもない。成長すれば彼女にもっと近づけるはずが、まるで逆だった。それで満足できるはずもなく。練習でくたくたになって帰り夕食をとったあとは宿題と予習に資格の勉強。心身共に疲れ果てた夜、高校から使い始めた携帯電話でティナにかける。そんな時に聞く彼女の声は空になりかけのコップにとくとくと水を注がれるように心地良く、生き返る思いがした。その声の優しさが、ずっとそこにあるかのように錯覚していたのだろう。クレーンゲームの景品みたいな──それもちょっとアームが触れれば簡単に穴に落ちるやつ。

 さらに顔を合わせる少ない機会でさえティナはよそよそしくなっていった。
 彼女の家族とは毎年恒例で共に年始を過ごしている。今年も例に漏れず土産を手に訪れた彼らに、湧き立つ気持ちも束の間だった。さり気なくティナの隣に陣取りそのなめらかな頬に見とれていると、やがてさっと台所へ立ってしまう。ティナはうちの台所はもう慣れたものだが、めげずに横に立ちあれこれ世話を焼いていると不機嫌になって台所から追い出される。それすら嬉しかったりするのだから重症だと思う。

 この間のバレンタインだって、玄関先でライトさんに二人分のチョコを渡して帰ってしまう始末。何がショックだったかって、ライトさんのチョコと寸分違わず同じだった事だ! 今まではラッピングや中身に僕だけほんの少しの特別感があったはず、なのに……。あからさまな「自分のことは忘れろ」というサインに焦らずにはいられなかった。例の約束も、言い出せないままうやむやになっている。元々僕が強引に取り付けたようなものだし、彼女は去年のあの時でチャラになったと思っているのかもしれない。

 あの時のことは、苦く甘い思い出としてまだ記憶に新しい。去年、一人暮らしを始めたティナの部屋に引越し祝いという名目で訪れた。『十八になったらキスする』と交わした約束を遅すぎるという意味で後悔していた僕にとって、千載一遇のチャンスだった。約束をしたからといって恋人を作ってはいけないことにはならない。無意味な束縛だと、とうに理解していた。
 まだ一年あるけど、と例の約束を持ち出すが案の定断られる。では頬ならと条件を落としてみる。彼女は渋るが、僕は引かない。とっておきのカードを使ったのだ。あれは、今日まで温存しておくべきだった。

『ティナだってあの時たくさんキスしてくれたじゃないか』
 予想どおりティナは固まり、言い訳にならない言い訳をはじめる。

『あんなキスされて、僕が平気でいられたと思うの』
 追い打ちをかけると観念したように黙った。
 彼女が大きく抵抗しないのをいい事に、ふんわりとした頬や目元、耳、顎のラインに口付ける。そのたびに小さく声が上がった。二十二歳にもなって、どれだけ純情なんだろう! いやその逆か。僕をあれほど惑わしておいて自分は感じやすいなんて、ずるいと思う。この部屋で僕らが何をしようと隣の住人くらいしか知りはしない、唇にふれたくてたまらない僕を彼女は悲鳴混じりに制止した。涙目で、しかしはっきりと発せられた言葉を不思議と魔法のようにすんなり受け入れる。力でねじ伏せて得る快感よりも、彼女の信頼を失う怖さが勝った。

『あのあと、あなたの事ばかり考えてしまって困ったわ』と笑う彼女の困り顔をよく覚えている。許してもらえたと思ったのは勘違いだったようだ。それを境に僕らの関係は軋み始めたのだから。少年が年上の少女に向ける、思春期らしい慕情。それ以上のものを含んでいると彼女は気付いてしまった。……ティナのアパートが見えてきた。

 二階建ての小綺麗なアパートだ。
 エントランスの両脇の桜は公園に植えられている種とは違い、蕾がほころび始めたばかりだ。自転車を止め二階の角部屋に明かりが灯っているのを確認し、階段を上る。ドアの前で深呼吸して心臓を落ち着かせる。
 インターホンを鳴らすと、少ししてからティナがドアの隙間から顔を出した。アパートの薄暗い廊下に部屋の中から暖かい光と空気が漏れる。顔色は記憶より青白く、疲れているように見えた。ティナは驚き、ばつが悪そうにエプロンのポケットに手を差し込んで曖昧に笑った。

「眼鏡かけてるとこ、初めて見たわ。また背が伸びたんじゃない?」
 それには答えず、眼鏡をパーカーのポケットに突っ込む。ちょっと話したくてと言うと、彼女はきゅっと唇を引き結ぶ。唇が開きかけた時、背中に寒気が走った。
「っくしゅん!」
「まだ寒いんだから、何か羽織ってこなきゃだめよ…待ってね」
 小さくため息をついてから拍子抜けした風でティナは言い、中に引っ込む。二、三分パタパタと慌てた足音のあと、再びドアが開いた。
「どうぞ」
「……お邪魔します」
 型どおりの挨拶の何がおかしいのか、ティナはくすくす笑った。
「何」
「なんとなくね、ふふ…」

 ティナのまとう空気が変わり、緊張が少し和らぐ。玄関から細く短い廊下とキッチンを抜けて通された一部屋には、夕飯の匂いが残っていた。シンクで水に漬けられた食器や調理器具が食事を終えたばかりであることを示している。ベッドの脇の丸テーブルに揃えて置いてある、保育園から持ち帰ったらしい書類や折り紙、画用紙が目に入る。食後に取り掛かるつもりだったのだろうか。邪魔してしまった。
「…ハンバーグの匂いがする」
 ティナはうん、と頷き、
「今日は、ちゃんと作ったほう…」
 いつもはもっと簡単なの、とはにかむ。夕飯を作れるようになりたいと高校で家庭科部に入った当時はあまり上達せず、ぼそぼそしたマドレーヌをよく作っていたが、少しずつ前進しているようだ。バットに冷ましてある小さいハンバーグを恥ずかしそうに隠し、ラップをかけ冷蔵庫に入れた。ティナのそういういじらしさは心身を過剰に刺激する。年始に会ったきりの所にそんな仕草を見せつけられてはたまらない。

「それお弁当用? 食べてきたのにお腹空きそうだよ。自炊頑張ってるんだ」
「うん…良かった、たまくんが来たのが今日で。昨日だったら困っちゃった」
「何作ったのさ?」
「スープと……教えない!」
 いたずらっぽくこちらに笑いかけながら丸い折れ足テーブルの上の紙類をのけ、「座ってて」と台所に立つ。疲れがにじむ笑顔でも、僕にはまぶしい。そんな彼女の態度に気遣いを感じ、気付けば正座していた足を寛げる。

「余計知りたくなるなぁ」
「だーめ。昨日はちょっと…うっかりして焦がしちゃった」
「疲れてるのに偉いと思うよ、ティナは」
「ふふ、ほめても何も出ないわよ。たまくんだって自分でご飯作ってるじゃない」
「まあね。その上ティナより早くて美味いしね」
「もう! 上げて落とすのやめないと、向こうで女の子にもてないわよ」
「問題ある? 僕にはティナがいるし」

 カップを用意していたティナは、一拍置いた後くるりと振り向いて大げさに手を広げてみせ、腰に手を置いた。
「私なら、もう気にかけてもらわなくても平気よ。たまくんのおかげで見ての通り、こんなにタフになったわ。園児二人くらい余裕で抱っこできるんだから!」
「なるほどね。立派なティナ先生だ。そうじゃなくてさ、僕らは……僕は、これからも」
「お湯が沸いたわ。紅茶でいい?」

 力こぶを作っているティナを無視して風向きを変えると、彼女は途端に顔も話も逸らした。
『私にはたまくんがいるもの』──今まで散々爆弾を落とされてきた意趣返しのつもりだった。不発に終わっても気落ちはしない。想定内だ。恋愛の話題を振って来たのはティナの方だから躊躇なく切り返せたが、本当は顔色変えず言うのは勇気がいる。
 ティーポットにお湯が注がれる音を聞きながら、ころころと笑う声や表情、口元に手をやる仕草に早まっていた心拍を落ち着ける。その手に触れたい。……じゃない話をしに来たんだ僕は。決してそういう目的で来たんじゃない。会ってしまうとどうも感情が肉体的欲求に引きずられて困る。受験前で電話も控えていたから、直に話せるぶん余計に気持ちが高まっているのだろう。
 ざりざりと固い雑音がしてティナの後ろ姿を見ると、紅茶に入れるつもりらしく生姜をすりおろしている。嬉しいけどそうじゃない。何やってんだよ……告白に返事をしないくせに気を持たせるのはやめてほしい。きっとここにいるのが誰でもそうするんだろうな。トレイを運んできたお人好しのティナは、呆れた視線にも気付いていない。

「…ありがとう」
「夕飯の洗い物がまだなの。先に済ませてもいい?」
 どうぞと言うとティナは紅茶のカップを置き立ち上がる。水色のカップからは紅茶のフレーバーらしい甘い果物の香りがした。女の子って何でか甘い匂いつけたお茶が好きだよな…。でもこれはこれで生姜の香りが合わさってまろやかな、自分だけのための飲み物のようで悪くない。話を先延ばしにしたいのか台所に向かう彼女を見上げて熱い紅茶をすすると、じんと体が温まる。ティナがシンク横に置いた自分の分の紅茶を一口飲む。冬でもポニーテールの首筋は寒そうだ。