初恋サンセット 後

「…──くん、たまくんっ!」
「……ティナ!?」

 声の主に呼び止められ、振り向いた少年は驚いた。普段はおとなしいティナが全速力で駆けてきたのだろうか、制服のスカートから覗いた膝に手を付き、肩で息をしている。

「はぁっ、はぁっ、あのね、パン屋さんで、おやつ買ってきたのっ」
 下を向いたまま苦しそうに言い終えると、ふうっと息を吐き、
「一緒に食べよう?」

 やっと首だけ動かして少年の方を向き、ふにゃっと笑った。かがんでいるために、図らずも少年の目線に合わせる格好だ。思いを寄せる少女の気取らぬ様子につられ、胸から張りつめた空気が抜けていく。

「僕も行こうと思ってたから、別にいいけど……」
 早く早くと背中を押すティナに流され、理解が追い付かないまま公園のベンチに座らせられる。ティナもその隣に腰かけ、手に提げていた包みをひざに乗せた。

「久しぶりにふわふわ、食べたいなぁって」
「ほんと! ちょうど僕も食べたかったんだ。ありがとう」
「花屋さんでね、店長さんの髪型を見てたら食べたくなっちゃった」

 にこにこしている少女のポニーテールに、オレンジ色のガーベラが一輪。少年はいやな予感がした。
「それは奇遇だね……まさかティナ、」
「って言ったらね、お花おまけしてもらっちゃった」
 こともなげにティナは言う、この少女に悪気というものは存在しないのだった。少年は青くなって諌める。
「言ったらダメでしょ……!! 店長さん、怒ってなかった?」
「ううん、笑ってた。自分の髪型で商店街が賑わうのはうれしいって」
「よかった……」

 もてるはずだ、と、それはもう街の老若男女に渡って好かれている店長を思う。彼女の心の広さにほっと胸を撫で下ろした少年だった。
 ティナが包みから取り出したのは、粉砂糖のたっぷりかかったツイストドーナツである。特に店のおすすめでもない定番商品だが、彼らは、特にティナは昔から気に入っていた。小遣いが貯まるとふたりして、今日のティナのように息を弾ませ買いに走ったものだ。

「おいしい」
「久々に食べるとすごくおいしい…」
 二人ともまだ色気より食い気の年齢である。部活の練習帰りの少年もティナも、ちょうど小腹がすいていたこともあり一言感想を漏らすともくもくと食べ始めた。夕飯が食べられなくなるからと、一個を分け合っていたものが、今は一人一つずつ。少年がなんとなく寂しさを感じていると、ティナはもう食べ終わって包み紙を丁寧に畳んでいた。

  「昔は僕より食べるの遅かったのになぁ」
「走ったら、お腹すいちゃって……」
 思わず口に出た言葉に、ティナは恥ずかしそうに肩をすくめた。
「大きくなったねえ、ティナも」
 しみじみと言う少年をおばあちゃんみたいねとティナは笑い、ふと少年の口元に目を止めた。

「たまくん、ついてるよ」
 ここ、と自分を指さした人差し指でそのまま少年の口元を拭い、自然な動作でその指に口をつけた。少女の唇が指先を含むのを見るや、少年は顔から火が出る勢いで赤面した。頭の中はそのことしか考えられなくなり、うわわわと勝手に出る慌てた声を他人のように聞く。しかし、彼女の口元についたものを見て調子を取り戻したようである。ぷっと吹き出し、
「人のこと言えないよ!」
 背筋をぐいと伸ばして彼女の唇を拭う。それから、拭った指を見て、はたと固まった。ティナはありがとうと言ってこちらを見ている。極力、なんでもないという顔をして少年は指先の粉砂糖を舐めとった。ゆっくり首を動かし、公園ののどかな風景に意識を集中させる。小さな子供が雀を追いかけて遊んでいる。恥ずかしい。昔はこれが普通だったなんて。  

 いやに良い姿勢で遠くを見ている少年を不思議そうに見ていたティナだったが、思い出したように鞄の中をごそごそ探り始めた。走ってきたせいで中身が混ざってしまったようだ。ようやく目当ての物を取り出すと、
「たまくん、これ見て」
 携帯電話の画面を少年に向け、自分もと覗き込む。青空に、風にちぎられた羽のような雲が浮かんでいる画像だ。それだけならば特筆すべき点はないが、目を引くのは、その雲が七色に彩られ輝いていることだった。

「彩雲?……これ、ティナが撮ったの? 最近のだったら、」
「そうなの!」

 違うかもしれない、と口から出かかった言葉を飲み込む。少年の言葉を最後まで待たずにティナは頷き、見るといいことがあるんだって、と頬を綻ばせた。
「夏休みにね、学校の屋上でお昼を食べてたら偶然見えたの」
 季節と時刻からして、彩雲とよく間違えられる環水平アークだろう。そう少年はあたりを付けたが、子供のように嬉しそうにはしゃぐティナを前にすると言い淀んでしまった。

「たまくんに見せたくて、」
「そのために来たの?」
 こういうところは昔と変わらない。気を付けて空を見ていればそう珍しくもない気象現象を見せに、自分を探しに来たのか。常ならば、ティナであっても、ティナだからこそ間違いを正すことに戸惑いはない彼である。だがこの場では、あまりにも野暮だった。
「……ありがとう、ティナにもきっと、いいことあるよ」
 その時誰がそばにいたのか大方の予想はついたが、少年は問わない。ティナと同い年だったなら、この雲を隣で見られた。

 ティナは普段はおっとりとした少女で、人当たりは良いがあまり自分の事を話す方ではない。けれども姉弟ときには兄妹のように育ったこの少年には、ましてや二ヶ月会っていないとあれば話の内容もあちらこちら飛んだり跳ねたり、時には言葉足らずになる。少年は持ち前の明晰さでティナの言いたいことを推測し、これはこうだよねと随時補足しながら、自分に話してくれることをうれしく思い、少女のおしゃべりに付き合う。
  「子供たちがね、着いた時玄関に並んで挨拶してくれたの! 電線にたくさん留まったすずめみたいで可愛いくてね……」
 ティナの保育園でのボランティア活動も話題に上ったが、自分には未だ進路の事を話してくれないことを思い出し、少年はちくりと胸が痛んだ。

「ティナって雀が好きだよね」
「ええ! だって──…」
 ティナは勢いよく言いかけ、
「……うん、好きなの」

 少年から視線を外し声をひそめて言った。今の聞き方は意地悪だったかもしれない。口ごもったのは、「たまくんみたいに可愛いから好き」とか、そんなところだろう。過去にそんな言い方を何度もされ、別に可愛くない、やめてくれと幾度も抗議してやっと止まったのだ。彼としては、「好き」の部分はいいのだが、「可愛い」は納得しかねる。
 そして先の言葉が自分を思い浮かべて発せられた言葉ならと考え、口の端がむずむずするのを抑えられなくなる。甘く痺れた指の先に、羽根が生えて浮いてしまえそうだ。ティナの隣に座っているのが急に苦しくなり、本当に飛んで行ってしまえたらと思う。

 ──あの時、ティナははっきり自分を好きだと言わなかった。
 付き合ってくれと言ったって、ティナはきっと首を縦に振らなかったろうと彼は思う。ティナは少年を、年上の異性に憧れる子供だと思っているふしがある。時が経ち、いつか他の異性に目が向くのを見越してあんな言い方をしたのだ。そんなはずがない。少年はティナに相槌を打ちながら内心でむくれた。彼女はどれだけ自分が想われているか知らないのだ。
 熱のこもった口づけを受け、赤らんだ頬を見てさえ、少年はティナが自分へ向ける感情が恋なのか疑っていた。自分を小さきものに勘定するのは許し難かったが、彼女の、小さきもの、とりわけ手触りの良いものへの愛は果たして平等だったからだ。だからこうやって、少しずつティナの気持ちを引き出すしか方法はない。いささか誘導尋問じみていても仕方ない、必要なことなのだと少年は自身を納得させた。

 いつしか日が傾き始め、吹く風は涼しいというより少し冷たい。ティナは影になった面を上げ、落ち着きをなくした少年に向き直る。オレンジ色の西日のために、彼のほんのり赤い頬にも気付かない。少女の揺れる金髪が風を受け、夕日に透けてきらきらと光った。あの日の海のようだと、少年は息をのみ見つめる。

「たまくんのおかげなの」
「え?」
「たまくんがいてくれたから、私、この町が好きになれたのよ」
「…どうしたの、改まって」
「あのね、……今まで、ありがとう」
「や、やめてよ! そんな言い方、お別れみたいじゃないかっ」
 ティナは少年の剣幕を意に介さず、静かに言葉を紡ぐ。
「私、進路を決めたの」
「………。聞いてるよ」
「そう」

 ティナは保育系短大への進学を決めている。少年はそれを、家に押しかけてきたうえ、我が物顔で素麺をすするバッツの口から聞いた。ピアノを教えてほしいと持ちかけられたと。結局バッツのピアノは良くも悪くも自己流すぎたため、良い教室があったら知らせる約束をし、彼女の人生相談にも乗ったらしい。彼は兄クラウドの友人で、家によく遊びに来ていたこともあってティナは実の兄のように慕っていた。一時期、クラウドが本格的なラーメン作りに凝りだした際には(その傾倒ぶりは進路を本気で悩むほどだった)、毎日のようにバッツも相伴にあずかっていたという。年上の気さくな青年になら、ティナも相談事がしやすいだろう。理解はできる。お株をとられたように感じて納得がいかないのだ。

「会えないと、さびしいの」
「……?」
「私、もう十八よ。たまくんに頼っちゃいけないと思ったの。考えたわ、自分のこと、未来のこと」
「…うん」

(……そういうこと)
 もやもやと渦巻く心に、ぽつりと雫が落ちた。
「迷ったけど、ちゃんと自分で決められた。決めただけよ。まだ何も始まってないけど、自信がついたように感じる。なのに違うの」
「うん?」
「頼らなくても大丈夫、だけど会いたい、話がしたいって思うのは変かしら?」
「う、ん……ううん!」
「…まだ甘えてるのかも、あなたに」
「僕も…僕だって会いたかった」
「ほんとう…?」
「ホントだよ。そういうのは甘えって言わない。ティナの心にひ、必要な、事なんだ」
「……そうね、こんなに嬉しいってことは、私には、あなたが必要なんだわ」

 ぽつりぽつりと零れる少女の思惑は波紋のように広がり、すうと胸に溶ける。胸の底に焦げついたわだかまりも、少しずつ泡となり溶けていく。
(というか普通に恥ずかしい……!)
 口に出す者がティナでなければ、直球の告白である。多少誘導した感も否めないが、この際気にするまい。至近距離から豪速球をぶつけられて、まともに彼女のほうを見ることができない。蒸発しそうな頭で先の言葉を何度も咀嚼して、少年は体の芯に煌々と火照る塊を感じた。顔が熱い。
「だから……これからもよろしく。近くても遠くても、私のそばに、いてね……ううん、いてくれる?」
「──!」

 いいのだろうか。僕が邪魔じゃ、ないの。
 告白とも決別ともつかぬ言葉。けれどティナの目は真摯だ。驚き、喉から音が出ずにこくこくと頷く。じゃあ、握手と穏やかに笑んだティナから手のひらが差し出された。恐る恐る、指を伸ばし触れる。ティナも触れられた手でそっと彼の指に触れ、どちらからともなく、手を繋いだ。さらりと柔らかな手の感触に少年の心は解れ、ぎゅっと握り返す。ティナもまた握り返し、さらにもう片方の手をふわりと重ねた。少女の両手に包まれ、嬉しそうに微笑まれては、身の置き場がなくなってしまう。冗談ではなく彼の目の前は、夕日をものともせず幸せの色に霞んだ。

「いいよ、いいってばもう! しょうがないな! ティナは僕がいないとほんっと、ダメなんだからね。ティナを助けるのは当然のことなんだから、気にしなくてもいいの!」
 少女の暖かな両手に包まれた途端、及び腰な自分の態度が照れくさくなり、矢継ぎ早にまくし立てる。それに感じ入ったティナが少年の手ごと胸に抱きしめようとするものだから、大騒ぎである。

 見たかった。泣くのをやめ、立ち上がり、臆病ではなくなったティナが先へ進むのを。
 もし同い年だったなら、大事な決断を下すのをそばで見られた。
 同い年だったなら、彼女が何かに影響されるのを間近で見られた。同い年だったなら……同い年だったなら、ティナはあの時キスしてくれただろうか? 僕は?
 ティナはもう、公園の隅で泣いていた女の子ではない。放課後の公園、彼らの植物観察に興味を持つ子が一人、二人、……そうしているうち、ティナはいつしか学校が楽しみになっていた。それも過去の事、もう自分がいなくたって平気だ、だけど反論せずに微笑んでいる。

「一つだけ忘れないでね」
「なに?」
「いい。五年後思い出してくれれば」

 思い当たる事があったのか、ティナは手をぱっと離し口元にあてた。解けた手が名残惜しかったが繋ぎ直す勇気はない。今の動作で少女の高く結い上げた髪束が揺れる。ガーベラの下にちらりと見えた髪留めは、彼が見覚えのないものだった。
 ──今日はあの髪飾りじゃないんだ。もう結構経つんだし、当然だよね。

 あの髪飾りとは、彼がティナの誕生日に決死の覚悟で渡したものだ。秘密ね、と約束したのに、翌週にはニヤニヤしたジタンに思い切り背中を叩かれていた。何で僕があげたことを知ってるんだよ、と声をあげる間もなくまくし立てられる。
「最近かわいいの着けてるねって聞いたらさ、ティナちゃん、嬉しそうに教えてくれたぜ」

 お前も隅におけねえな、としきりにうなずいている。……ティナは悪くない。すごく嬉しかったんだろう。くれた人間を抱き締めちゃうぐらいには。できれば秘密にしておきたかったけど……。
 ティナには妙に頑固なところがあった。それしか持っていないと思われるよ、毎日同じものを着けてると消耗するから一日おきにしては、などと言っても、気に入っているからと一向に聞き入れない。そんなにそれが好きなら、そうすれば? と指示語だらけのあきれ顔を作ったものの、少年は内心むずがゆくて仕方がなかった。彼女が自分の所有物になったような…──もちろん違うことはわかっているが、ティナは僕があげたシュシュを毎日つけてるんだぞ! と街中を叫んで回りたい気分だった。

「どうかした?」
 視線に気づいたティナが少年を見る。
 あ、いや……としばし迷ったのち、意を決して言う。
「あのさ、携帯番号、教えてよ」
 ティナは一瞬面食らったが、ひとつ頷いて手帳にメモを書きつけ、破りとり少年に渡した。これで一つ繋がった。
「かけるから」
「……うん」

 少年は携帯電話を持つことを許されていない。もちろん家の電話帳には彼女の自宅、彼女と保護者二人の携帯番号までも記されている。だが番号を知っているとはいえ、幼馴染の立場を利用するような真似はしたくなかった。女の子の携帯電話にいきなりかけるのは、マナー違反だ。表立って人に言えない用事ならなおさらだ。
 同時に「君と話がしたいから」番号を聞くのだ、という意思表示でもある。たとえ彼女が自分を必要としていたとしても、それは単に幼馴染としてではないか、という疑念を彼は断ち切れない。
 わざわざ番号を聞く意味、わかってくれただろうか。細い指先がそわそわしていたのは、手帳に数字を書き付ける頬が少し染まって見えたのは、見間違いだろうか。

「そろそろ帰らなきゃ」
「ん…僕も」
 公園の出入口の階段を下り車道に出る。共に並んで歩くが、何ともぎこちない。柔らかく包まれていた右手は元の状態に戻っただけであるのに、すうすうと空気をつかんで所在なく揺れている。しかし、彼らの関係が一変したあの事件の後では、気軽に手を繋ぐことはためらわれた。多少照れはしても、今までは幼馴染みの気安さで手を引いた。二人は今、ただの幼馴染みでもなく恋人でもない。彼女もそれを感じていてくれればいいと考えながら、少年は気もそぞろに歩みを進める。
 ティナは心なしか、そわそわしているように見える。そうであってほしい。両手で手を包んでくれた彼女の、こそばゆそうな、心の底から嬉し気な笑顔を思い返す。『好きな人にはあんな風に笑うんだ』。……いつもと違うティナと手なんか繋いだら、ヘンな気分になってしまいそうだ。少年は気をそらすように関係のない話題を振る。

「え、とさ、うちの金木犀、満開だから今度見においでよ」
 少年が言うとティナは目を丸くし、もじもじとはにかんだ。
「それも見たくて来たんだけど、なんだか言い出せなくて……」

 先ほど彼女は花を”おまけしてもらった”と言った。少年はやっと自分の頭が回転し出すのを感じ、軽く息を吐きやっぱりねと呟く。

「早く言いなよ! 買い物して、うちに僕がいないから自分ちにお花置いて探しに来たんでしょ? いつも自転車なのにおかしいと思ったよ 」
「う…ぜんぶ当たり。だってどうしても今日会いたかったの。入れ違いになっちゃうかもしれないし、とにかく走らなきゃって…………あら? 私、どうして自転車置いてきたのかしら…?」
「やっと気付いた? わざわざ走ってくるなんてさ、ティナはほんとに、…っく、あはは! ほら行くよ 」
「笑わないでよ、たまくんいなくて必死だったんだから!……くす、ふふふ!」

 急に胸が高鳴ることを言うティナにそれと気取られないよう、先を行く。するとおかしくてたまらない様子で後ろを付いてくる。そしていたずらっぽくちらと目配せすると、少年を追い越し走り出した。今日のティナはよく走る。綿菓子のようなポニーテールがぴょんぴょん跳ねて遠ざかっていくのを、逡巡しながら少年は見送る。

「先に見に行っちゃうから!」
「どうぞ。僕は毎日見てるし」
「えー……」

 手を振り気のない返事をすると、数十メートル先から明らかに残念がる声がした。後ろ歩きでかまってほしそうにこちらを見るティナに自尊心をくすぐられ、彼は口だけ誘いに乗ってやる。

「僕に足で勝てると思ってるの?」
「私だってやる時はやるわ」
「へええ」
「バカにしてるわね…」
「全然?」

 ぬるい湯のようなやりとりの間を、金木犀の香りを含んだ風が通り抜ける。少し冷たい風が火照った頬に心地よい。
 ティナは立ち止まり、深呼吸して満足そうに笑む。少年もまた微笑み返し、目を細めて彼女の遥か向こうに輝く夕陽を見た。彩雲──ではないあの虹色の雲も確かに美しかった。一緒に見られたなら特別な思い出になっただろう。もっと身近なもの……いつもの夕陽だって金木犀だって、ティナと見るなら十分綺麗だ。その夕陽でさえ幼馴染ふたりには日常でなくなりつつある。

 今日──木曜日は剣道部の活動で少し帰りが遅いと話したことはあったが、ティナは忘れているようだ。不定期の部も含め部活を三つ掛け持ちしている少年と、受験を控えているティナとでは、既にお互いのスケジュールも把握しきれていない。今まで当たり前に共有できていたものが見えなくなる。それはこの先ますます加速し、小さな悩みも喜びも分かち合うのが難しくなるだろう。少年は暗鬱な気持ちで太陽を睨み、足を速める。つられて夕陽を見ていたティナが、また後ろ歩きで口を開いた。

「たまくんは、先生になりたいのよね」
「今のところね。僕教えるの好きみたいだ。ライトさんみたいな研究者もいいけど、色んな分野に興味があって絞れないよ。教員免許はいくつか取るつもり」
「すごいなぁ…私とは、全然ちがうね」
「人生の良し悪しは決断の早さによって決まるものじゃない」
「そうかしら…」
「ってライトさんが言ってた」
「うふふ」
「もっともだけど、僕は見通し立てて後から修正きくようにしておきたいな」
「……あなたを見てると、なんだか自分が恥ずかしくなるわ」
「うん、全然違うと思ってるとこなんか全然違うよね」
「……?」
「ティナ、自分を卑下することはないんだよ。僕は早く歩きたいから歩くんだ。教師になりたいのだって、半分はティナに常識とかものを教えるのが楽しかったから」
「勉強まで教わってたものね……あなたがいなかったら私、どうなってたか」
「人によって歩くスピードは違うって話さ。迷うのもまた人生、ってね」
「それもライトさん?」

 ティナから長く伸びる影に視線を落とす。よほど気分が良いのか時々スキップや小走りをはさむ細い影はひらひらと踊り、彼の足元に届きそうで届かない。少年はぼそぼそと口を動かした。

「……だからティナは迷いながら僕を待っててよ」
「え?」
「何でもない」
「…久しぶりにライトさんに会いたいな。小さい頃は色んな話をしてくれたわよね。ダイオウグソクムシはごはんを食べないとか」
「もうあれの話はうんざりだよ……いつの間にか増えてるんだ、ぬいぐるみが」
「ふふ、可愛いじゃない」

 少年の兄に貰った深海生物のぬいぐるみが気に入りだと話す脳天気な声が、どこか空々しい。少年はさらに足を速めてティナとの距離を縮め、逆光ではっきりとは見えなかった表情に目を凝らした。日の暮れは刻々と迫り、明るい場所では淡い青紫の瞳は暮れなずむ夕闇に沈んでいる。口もとは笑みの形、眉が下がり眩しそうな、ふとした瞬間に泣き出してしまいそうな顔。声音と表情がちぐはぐだ。走ったりふざけたりいつもと調子が違うのは、彼女なりの照れ隠しか。

 目が合い、凝視されている事に気付いたティナがうつむく。一瞬目を伏せた顔が本当に泣いているようで少年はどぎまぎする。きっと彼女にとっても勇気のいる事だった。近くても遠くても、そばに。たぶん物理的な意味でなく心の。もちろん……もちろんだ。結果的に友人としての意味になったとしても、それが自分たちの選択ならば後悔はない。だが彼はあきらめるつもりも毛頭なかった。
 彼女の態度が今までと何も変わりなかったなら、怖気づいて、あの夏の日は思い出として心にしまっていたかもしれない。でも違った。ティナは違うんだ。少年は己を奮い立たせる。もう『もし』だとか『だったら』とか考えるのはよそう。たぶん、彼女はまだ「好き」って感情がよくわかっていない。そんな彼女の中で、自分は特別な位置にいる。今はそれでちょうどいい。今はまだ。

(僕が大人になって「可愛く」なくなったらどうなるかはわからない。でも。)

 少年の恋は前途多難だ。自分たちはずっとそばにいられるわけではない。ティナが少しずつ離れていったように、少年にもその時が来るだろう。ティナと、兄弟たちと別れなければならない日が。それでも。同じとき同じ景色を見られなくとも歩み寄ってくれる彼女が、好きだった味を覚えていてくれる彼女が、うれしい。次に会うときには手を繋ぐ。これは課題だ。

 段々と紫がかる天に気を取られていたティナが振り向き、もうこんなに近くにきたの、と呟いた。日暮れと共に影は薄くなり、目標は三歩先だ。先刻までは目にしても気落ちするだけだったことわざを口にする。

「『艱難汝を玉にす』ってね……」
「なあに?」
「なんでもないよっ…それ!」

 いつの間にか少年は手首を竹刀を握る形に構えている。勢い良く足を踏み込み素早く小手、面と連続して動作をひらめかせ、くるりとティナを振り返るとにっと笑った。夕闇の瞳にきらりと星が瞬く。
「まあ! 一本取られちゃったわね」
「へへっ」

 少女の隣に並んで見上げた表情は、穏やかだ。
 困難を乗り越えてこそ人は玉のように磨かれ大成するという。いいよ、追いついて見せるから。僕がティナの「いいこと」になればいいんだ。風のように走り抜けて、ティナを受け止めてやるくらいの男になってやるさ。少年はそう自分に言い聞かせ、フェイントで走り出すタイミングを計りながら、頭のすみでは誕生日の贈り物について再考する。いっそのことプレゼント選びを口実に、デートに誘ってもいいかもしれない。

2017.10.06