初恋サンセット 前

 そもそものきっかけは何だったろうかと、少年は考える。出会ったとき。手を繋いだとき。興奮すると耳が赤くなるのに気付いたとき。どれも違う。手のひらで水底をさらって貝殻を探すように、記憶の中からすくい、意味をよく考えてみる。
 幼馴染の少女との他愛のない話。好きな季節の話だった。彼女の生まれは秋、一番好きな金木犀も秋の花。予想は外れた。理由をたずねると、彼女はじっと少年の目を見て言ったのだ。

『だって……新緑って言うのよね。夏が来る前の葉っぱって、たまくんの目の色みたいに、きれいなの』
 頬が燃え上がった。きらきらしたかけらを胸に差し込まれ、自分が自分になった、と思った。息ができなくなるような感覚は、次の「梅雨の濡れた葉っぱもきれいで好き」という言葉によって瞬時に立ち消えたため、何だったのかよくわからないまま時が過ぎた。今は、今ならわかる、はっきりと。

 駅前通りの商店街に位置する花屋は、今日も繁盛していた。まさに花のように柔らかな店主の笑顔と、アルバイトのフリオニールの純朴さも集客に一役買っているとは、本人は気付いていない。店先にはコスモスをはじめ、秋の切り花や鉢植えが並んでいる。フリオニールがとん、と濃い色の花を前に置くと、少年は札に書かれた名前を読み上げた。

「チョコレートコスモス……花びらが茶色いから?」
「とにかく、かいでみろよ」
 言う通り顔を花に近づけてみると、ほのかに甘い香りが鼻をくすぐる。
「本当だ、ココアみたいな匂いがする!」
「な? いいんじゃないか? これ」

 素直にチョコレートみたいと言わない少年を気にとめずに薦めるフリオニールに、店の奥から声がかかった。
「うーん、好きな子へのプレゼントには、向かないかな」
 カーテンからこの店の店主が、栗色の髪を揺らし顔を覗かせている。
「どうしてですか?」
「す、好きってわけじゃ…」

 聞いているのかいないのか、少々芝居がかった仕草で店内にすべりこむと、彼女は花言葉を諳んじる。
「チョコレートコスモスの花言葉は、『恋の終わり』『恋の思い出』『移り変わらぬ気持ち』……」
 しかし寂しげな表情から一変して、にっこりと笑みを見せた。
「でも、恋を経て愛がはじまるって考えると、ロマンチックでいいかもね」
「あ、愛……」
 青少年はあっけにとられている。

(コスモス、かぁ……)
 その花の名に思う所のある少年は、けれど二人にそれを悟られるそぶりを見せずに憎まれ口を叩いた。

「恋すら知らないフリオニールにはまだ早い話だね」
「お前だってそうだろ!」
「やっぱり図星なんだ」
「なっ……この…!」

 店主は大小のやり取りをくすくす見やると、ふらりと入ってきた女性相手に接客をはじめる。店で扱いのない花の、ほのかな香りが店内に流れ込んだ。

 金木犀の香気をたっぷりと含んだ風が吹き始めると、少年は悩ましい季節が来た、と思う。幼馴染みであるティナの誕生日が間近に迫っていた。彼女はどの季節にも楽しみを見つけていたが、橙色の小花の香りがどこにいても漂うかのような、この時期がお気に入りだった。花の香りにうっとりするティナの表情を思い浮かべる……いまごろ毎日上機嫌でいるだろうな。というのも、彼女は今年受験生だ。最後に顔を見たのは、二ヶ月前。あの日の抜けるような空とは違い、すっかり様子が秋めいている。今年は何を贈ろうか。
『ティナが誕生日プレゼントをくれるからそのお返し』を自分もプレゼントをする口実にしているが、本当は逆だった。ただ、人前で堂々と気持ちを口にするには恥ずかしさが勝つ年齢でもあったため、そういうことにしている。

 先ほどの女性客はプレゼント用のアレンジメントを注文し、待ち時間を買い物にあてるようだ。店主がアレンジした花束を、フリオニールがピンクや黄色、オレンジのリボンや包装紙で包む。一見、可愛らしいリボン結びとは無縁に見える彼だが、意外にも手先が器用なのだ。

「そういえばティナ、進路決めたって聞いたか?」
「知ってるよ。保育士でしょ」

 ティナから聞いたんじゃないけど、と思いながら少年は言う。フリオニールはひとつ頷いて続けた。
「最初は就職希望だったんだ。なんでも、お姉さんを助けたいとかで。」
「それも知ってる」
 もうティナも少年も、彼女の養母を「おばさん」とは呼ばない。
「お姉さんに説得されて迷ってたのが、この間のボランティアが決定打だったみたいだな」
「ボランティア?」

 リボンの端をはさみでしごき、くるくるとカールさせながら、
「ああ、夏休み、図書委員で保育園に絵本の朗読しに行ってさ。あの目の輝きようはいやほんと、夢があるっていいよな」
「……そうだね」

 知らなかった。
 フリオニールとボランティアに行っただなんて知らなかった。ティナらしいよな、と爽やかに笑うフリオニールを恨めしげに見る。作業台が低く、身をかがめていることすら憎々しく思えてくる。彼は、少年が幼馴染への恋心を自覚することになった元凶だ。
 フリオニールと親しげに話すティナを見たときから、少年は自分が彼女に向けている感情の正体に気付いてしまった。幸い、少年が勝手に恋敵と認定する相手はまだ勘付いていないようだ。にぶい奴。
 やきもちが声に出ないよう、つぶやくように言う。

「ティナは植物を育てるの、下手なんだ。ホワイトデーにあげたハートカズラも水をやりすぎて枯らしちゃったし」
「ああ、あれ、ハートの葉っぱで可愛かったのにな。なら切り花がいいか。……誕生日、俺も何かあげたほうがいいかな?」
「勝手にすれば」
「なんだよ、冷たいな……なあ、そういえば」
 ふと、ラッピングの手を止めてフリオニールが言う。

「気にした事なかったんだが、いつの間にか十人で集まるのが恒例になってるな」
 言う通り、海やどこか遊びに行く際に集まる人数はいつの間にやら増え、十人という大所帯だ。フリオニールも高校入学の年から縁あって参加している。
「迷惑な話だよ」
「いいじゃないか、楽しいし」
「ま、ね。ティナの変顔も見れたし」
「何だそれ?」

 海に行った帰り、飲み残したジンジャーエールをティナが興味ありげに見るものだから、悪戯心が湧いたのだった。案の定、ジンジャーエールに辛口があることを知らないティナは、思いっきりむせてしまった。
「甘くて炭酸なのに辛いなんて、間違ってる……! ってさ、すっごい顔してたよ」
 実は自分も辛口はあまり好きじゃない、とは言わない。おかしそうに笑っていたフリオニールは、何に思い当たったのか急に黙る。

「どうかした?」
 いや、なんでもないんだと顔を赤くして口ごもるフリオニールに、少年は優越感を感じてにんまりとした。フリオニールにとってはとばっちり以外の何物でもないが、このくらいしてやりたくもなる。
 彼がティナに特に恋愛感情を持っていないことには、気付いていた。よく反応を示すのはティナが”かわいい女の子”だからだ。だが油断はできない。恋は何がきっかけで始まるかわからないのだ。好きな子と毎日顔を合わせ親しく話をする奴がいるなら気をつけろ──三歳上の兄、ジタンの受け売りだった。国中を芝居して回りたいだの国中の女の子と恋したいだの、いつもふざけたことばかり言っているが、女の子に関してはたまにいいことを言う。
 フリオニールくらい背が高かったら。ティナと同級生だったなら。少年のほしいものを持っていながら、ティナと清い友人関係を築いているこの若者。その位置がねたましく、またそこに甘んじているフリオニールが苛立たしかった。いま耳を素通りする、彼が志す進路の話も、いつもなら興味深く聞けたはずだった。
 何がティナに『フリオニールはすごい!』って言われた、だ。僕だったら、僕だったらもっと──胸の中がかき混ぜられる。さらなる八つ当たりを避けるため、挨拶もそこそこに花屋を後にする。店主が手を振って笑いかけるが、微笑み返す気にはなれず会釈ですませる。
 少し考えた後、少年は家とは逆方向に歩き出した。本人にはとても言えないが、店主の特徴的な髪型を見ていると、どうしても食べたくなってしまうものがある。ティナが、砂糖をまぶしたふわふわで甘いの、と呼ぶやつ。小銭を握りしめてふたりで買い食いをしたあの頃、まだこの花屋はなかった。

 クラウドとティナ兄妹は、少年が兄と共にこの街に越してきて初めての友人だ。両親亡きあと、数年を施設で過ごし、親類に引き取られたばかりの兄妹は近所でも浮いた存在だった。
 若い男だけの三人家族で、やはり浮いていた少年ら兄弟とも、あるきっかけにより急速に打ち解けていく。今では互いの友人も巻き込んで、家族ぐるみの付き合いをしている。
 これまで少年は、年は離れているが引っ込み思案なティナの世話を何かと焼いてきた。そしてこれからも、自分たちの関係は変わらず続いていくのだと思っていた。二年前の春までは。

 ある放課後の帰り道だった。
 いかにも異性慣れしていない男子高生とティナが、談笑しながら花屋に入っていく。
 ──エスコートは確実に僕のほうが上手い。
 店長とそいつを交互に見て最上級にニコニコしているティナにも、段々と腹立たしさが増してくる。
 ──ティナって、好きな人にはあんな風に笑うんだ。へー。……好きな人、ね。
 自分で言って、自分で傷つく。喉の奥が絞られるように苦しく、言葉が出てこない。出て来なくていい。声をかける必要なんかないのだ。ティナに彼氏がいたって別におかしくないし、自分はティナの何でもない。踵を返す。
 翌日、気になって花屋をのぞいてみると、そいつ──フリオニールというらしい──が働いていたのだった。
 話しかけてみると、ティナとは同じクラスで、植物が好きなこと、学校から近すぎない範囲でアルバイトを探していたこと、他にも掛け持ちしていること、少年と同種の施設で育ち、少しでもお金を貯めたいことを口下手ながら教えてくれた。
 ──なんだ、意外といい奴。ていうか、そこまで言っちゃっていいの? ティナの友達だって言ったから? ……子供だから?
 馬鹿正直。それがフリオニールの第一印象だった。孤児の身なら他人にやすやすと事情を話したりしないはずだ。少年は何とは無しに思う。血の繋がりはなくとも、兄弟同様に育った家族がいるのかもしれない。例えば、自分みたいに。
 ここで疑問が一つ。なぜ昨日はあんなに取り乱してしまったのだろう。注意深く見ていれば、アルバイトの紹介だとすぐに気付けたはずだった。
 植物なら自分だって好きだ。幼少の頃、ティナは一緒に遊ぶうち草花に興味を持った。調べてみようと誘ったのは、他ならぬ自分なのだ。身近な雑草から始まり、さすがにバラの品種までは記憶していないが、家のそばの公園に咲く花や草木の名はおおかた知っている。
 春の花、夏の花、秋の花、冬の花……季節がめぐるたびにティナとスケッチし、名前のわからないものは図書館で図鑑を探した。調べて書き写したノートは、大切にとってある。

 ここまで回想して少年は気付いた。ティナの特別が自分だけでなくなる、それが気に食わず動揺しているのだ。もっと言うなら、もう自分は今の彼女の特別では、ない。ティナの隣。無意識に、将来そこに収まるのは自分だと期待していたのではないか。さらに悔しいことには、フリオニールはまさに少年の理想的な体格だった。今の彼では逆立ちしても手に入らない。性格もいい。自分とは大違いだ。
 それまで、家に入り浸る兄の友人連中にからかわれても別にティナはそんなんじゃない、頼りないから心配なだけだと答えたし、実際そうだった。じゃあどんなのがタイプなんだと聞かれれば、もし好きになるとしたら、シロツメクサのそばに咲いた、誰に聞いても雑草だと答えるような小さい花、それを瞳を和ませ撫でているような女の子──…聞く人が聞けば、もろにティナだと言うだろう。恥ずかしくて言えるはずもなく、また彼自身恋をするのはもっと先のことだと思っていた。
 それに彼女は五つ年上だ。当たり前だが小学校以来、学校が重ならない。あらためて意識するとこの差は大きかった。少年は思案する。「憧れの親戚のお姉さんに結婚が決まった気持ち」ってこんな感じだろうか。自分に親戚はいないが、ちょっと違う気がする。ティナは憧れのお姉さんっていうんじゃなくて、もっと近い存在だった。そう、「だった」。
 あんなに近く通じ合っていたのに、自分より先に大人になってしまう。置いていかないでほしい。昔みたいに、頼ってほしかった。初めて出会ったとき浮かんだ空想のように、彼女が人形だったなら、よい友だちになっただろう。自分の言うことなら何でも従っただろう。しかしそんな考えはばかげている。

 二人の植物観察は、少年がティナに付き合っているうちに本気になったという経緯がある。並行して自分のやりたい昆虫の観察をしようとするが、彼女は消極的だった。にもかかわらず、イヤなら来なくていいと伝えても、他に頼る者のない仔犬のように後ろをついて歩くのだ。その様子は年上ながら何ともかわいらしく、そして前を歩く自分が年長になったようで気分が良かった。嫌々ながらやっぱり付いて来るティナでないと、面白くないのだ。
 後にフリオニールとティナ、二人がただ席が隣り合ったゆえの友人だと知り、心の底から安堵した。その意味と、ティナはいつまでも昔のティナのままではない事とを、少年は理解せざるを得なかった。二年前、十一の時である。

 そして現在。涼しく乾いた風を頬に感じながら、放課後の道を歩く。商店街を抜け、東西に細長い公園沿いを東の目的地へ。この公園にはバラ園が整備されており、春は桜、初夏と秋にはバラが楽しめる。今もバラが見頃を迎えているが、うつむいて歩く少年の目には入らない。
 ティナが中学を卒業するまでは、毎朝一緒に登校していた。放課後も、どちらかの家に寄って宿題をしたりすることが多かった。彼女と過ごす時間は、年を追うごとに少なくなる。幼い日の繋がりは、彼の意思を無視して細く、ともすれば切れそうに細く。

(ライトさん…)
 鞄の中の、手触りのよい本の背を撫でる。かけられている革のブックカバーは、少年がライトさんと慕う長兄からこの春に贈られたものだ。彼は少年の心をくすぐる品選びがとても上手い。
 隅には少年のイニシャルが刻印されており、大人が持つような品物をいたく気に入って、早くいい色にしようと毎日持ち歩いているのだった。今のカバーの中身はポケットサイズの故事成語辞典だ。文庫本サイズのカバーとは合っていないが、少年にとってはささいなこと。図書館で借りた本を持ち歩く彼としてはめずらしく、今日は読む本がない。そのために今朝、家の本棚から何となく鞄にいれたものである。長兄の仕事関連の本以外ならば、家族共有の本棚から持ち出して良い決まりになっている。もっとも、持ち出すのは主に少年で、次兄ジタンが本を持ち出すのを彼は過去一度も見たことがない。
 手にとってぱらぱらとめくってみる。
 餓鬼に苧殼。それって僕のこと? 肝胆相照らす。昔はそんな仲だったのに。艱難汝を玉にす。苦労したからって、どうにもならないよ。管鮑の交わり。疑心暗鬼を生ず……落ち込むようなことわざばかりが目に付く。はあ、とため息をついて本を閉じると、色とりどりのバラに目を奪われる。彼は少しの間、自分が立ち止まっていることにも気づかず、緑の中に咲くバラを見ていた。

 バラを見ると、少年は母を連想する。
 写真で見た若く美しい母と兄二人、そして自分がバラの咲き乱れる庭園を散歩している。そんな夢を、物心つかない頃から繰り返し見るのだ。夢の中の自分たちは段々と成長していくのに、今も母は若いまま。他に人影が見えることもあるが、どれだけ目をこらしても白くかすんで鮮明に見えない。最近になって人影が増えていると気付いた。歩いている自分たちも、よく見れば、現実と同じ顔をしているのに別人のような雰囲気をまとっている。
 ありえない、母はもう死んでいるのだから。ただの願望だ、そう決めつけるには、同じ夢を何度も見すぎた。遠い昔こんなことがあったような、あってほしいと強く願っていたような、不思議な感覚をもってその夢は彼の内にあった。中学生にもなっておとぎ話のような夢を見ているとは人に言えない。それに、誰かに話したらもうあの夢を見られなくなってしまう気がして、彼はいまだ、誰にも話していない。

 少年ら三兄弟は、「母」に引き取られ育った。初めにライト、数年後にジタン、そして少年。少年が三歳のとき母は亡くなったため、彼は母をほとんど覚えていない。少年にとって、母との暮らしは夢の中の生活だった。ベランダの花、シャボン玉、ふくよかで温かい腕、シャツの清潔な匂い。それは記憶と言うには曖昧で、想像と言うほど不確かではない。写真の光景と、自分のなかに覚えのあるかすかなにおい、感触を、たよりない線で繋げたものだった。自分たちの母とは、どんな人だったかと聞いたことがある。兄の口は重く、引き出せたのは、
  「……たくましい人だった」
 一言のみだった。写真で見る女神然とした、たおやかな印象との相違に戸惑うが、しかし、兄が弟たちになにか言い含めるときの口調や姿勢、無骨な手でおずおずと頭を撫でる手つきは、おそらく母が兄にしたやり方を模しているのだと、弟たち二人とも気がついている。それは母から教わったのであろう素朴で飾り気のない料理からも窺えた。

 それで良かった。五歳から十八歳までの間、兄は母と過ごした。もし、兄が突然いなくなってしまったらと考える。腕をひゅうと通り抜けた風に、急に寒さを感じて身を震わせる。母が亡くなって、身を切られるような辛さだったに違いない。少年はそれ以上聞かなかった。あまり考えすぎると、考えても仕方のない事──本当の母の事──に行き着いてしまう。
 こればかりは兄も詳しく知らない。何らかの事情で施設に預けられた。それだけである。生きているのか死んでいるのかもわからない。何者でもない自分……そのことを考えるとき、少年は底のない真っ暗な穴に落ちていくような感覚に襲われる。だからなるべく考えないようにしていた。革の本の背をまた、撫でる。

 少年は兄のためならそれこそ何でもしたいと思っていた。三人に血の繋がりはなく、加えて未成年だった。母が亡くなった時点でそれぞれ施設に戻るのが順当である。家族になりたい、そんな母の遺志を汲み、兄は一緒に暮らし続ける決意をした。母が遺してくれたお金には極力手を付けずに、弟二人を育てようというのである。兄の人生にとって重すぎる負担であり、無謀だった。
 使命に燃える兄のもとに、ある日男が訪ねてきた。玄関ドアの高さに届こうかという大男である。

『コスモスが頼りにしておったというから、黙って見ておれば……』
『彼らは私が守る!』
『話を聞かんか馬鹿者!!』
 ──……お隣さんが通報しようとするのを引き留めるのに必死で、話の内容はよく覚えてねーな、とはジタンの言である。ともかく、嵐のような言い合いののち、少年とジタンは男が経営する児童養護施設に預けられる運びとなったのだった。その後、独立した兄と三人で暮らすことになり、安く借りられると古びた一軒家を紹介された。美女だが変わり者の大家で、金銭にまったく執着がみられない。家と庭の植木の手入れを怠らないこと、秋に柿が生ったら半分献上すること。それだけが条件だった。

 とにかくすべてが古い家であった。廊下の床板はぎしぎし言い、ダイヤル式の黒電話を使えるのは学年でも自分だけではないかと少年は思っている。引っ越しの際の大掃除は三人がかりでも一苦労だったが、また一緒に暮らせることが嬉しく、とくに弟二人はお化け屋敷を探検するかのように胸躍らせた。

 少年が思い返しながら歩いていると、遠くから誰かを呼ぶ声がする。その声に我に返り、目的の場所を過ぎてしまったことに気付いた。どうも彼は、バラの匂いをかぐとぼんやりしてしまうらしい。