はじける恋の味

「ティナは、もっとハッキリ言うべきだよ」
 年下の幼馴染はティナが何かされなかったかひとしきり心配すると、眉間にしわを寄せて言った。

「何で一人で行くかなぁ。ティナは大人しいから、ナンパされやすいんだって。言ってくれれば、クラウドや他の奴や僕だってボディガードを務めるのに」
 クラウドはティナの四歳年上の兄だ。家が近く、お互いの兄同士が友人なこともあり、ティナとこの少年は幼い頃から家族ぐるみで交流があった。夏休みも半ばに入った日曜日、兄とその友人達と一緒に、海に来ている。

「断ったけれど、手を離してくれなかったのよ。それに飲み物くらい一人で買いに来れるわ……でも、ありがとう、たまくん」
 わかっていない返事のティナに、少年ははあ、と溜め息をつく。しょうがないなぁ、ティナは。この台詞を今まで何回言われたことか。
「欲しくないの? 彼氏。いたほうが、いろいろ便利だよ。今みたいに」
「特別、欲しくないわ。私にはたまくんがいるもの」
 どういう意味、それ。少年が複雑な表情で発した問いには答えず、お礼に何かおごるね、ジュース? 焼きそば? 何がいい? と尋ねる。すると少年は顎に手を当てて少し考えたのち、言い放った。
「いらない。……お礼に、キス、してよ」

 どうしよう。弾みでうんと言ってしまってから、ティナは慌てた。キスって、どこに。
「ティナの好きなとこでいいから」
 読まれている。昔から察しのいい子だった。そうではなくて。
「こっち」
 あたふたするティナの手をひっつかみ、少年はずんずん歩き出した。

 いつの間にこんなに生意気になっちゃったのかしら? ティナは心の中で呟く。ちょっと前──ティナの「ちょっと前」とは「たまくん」が小学校に上がる前である──までは素直で可愛かったのに!
 溜め息をつかれても呆れられても、ティナはこの少年を憎からず思っていた。今だって、しつこく付きまとわれていたティナを助けてくれたし、背中に向けられた舌打ちと吐き捨てる声にティナが傷ついていないか、気遣ってくれる。背は自分より小さいけれど、格好いいところだって沢山知っているのだ。
 だって、この前だって彼は──ティナの思考はループし始めた。自然と頬がゆるむ。少年は訝しげにティナを見るが、いつもの事だと言う風に、また前を向く。

 去年の誕生日、少年はティナに贈り物をしてくれた。事前に全くそんな素振りを見せず、兄たちには絶対内緒にしてよね、という言葉とともに。小遣いで買える程度のささやかな品だったが、自分のために選んでくれたのだと思うとティナは嬉しさで胸がいっぱいになり、気が付いたらぎゅうっと抱き締めていた。そうしたら、彼は顔を真っ赤にして怒ってしまったのだ。それ以来、彼を抱き締めたり頭を撫でたりはしていない。
 ティナはそんな少年のいじらしさがかわいくてかわいくて、仕方がなかった。機嫌が悪くなるので、これも口に出しはしないが。

 思春期だものね。恥ずかしいんだわ。でも、大人になってしまったらもう、抱き締めることはできない。クラスの友人たちににぶいにぶいと言われるティナでも、その位はわかる。同じクラスのフリオニールや、少年の兄たちを抱き締めたりしないのと同じだ。同じ、なのだろうか。他の男の子たちと彼は。同じのはず。ティナは自分に言い聞かせる。
 大人になった彼というのはあまり想像がつかないが、そのうちに彼と同年代のかわいい彼女を連れてくるだろう。では自分は二度と彼をぎゅっとできないのか。当たり前のことが、ティナにはひどく寂しく思えた。フワフワと風にそよぐ髪を、すずめみたいによく動く可愛い後ろ頭を、眩しいみどりの瞳をいつまでもそばで見ていたいと思う。この感情につける名前を、ティナは未だ知らずにいた。

 どこまで行く気なのだろう。
 頬にキスするだけなら、移動しなくたっていいのに。思春期の少年にとっては、キスする場所も大事なのかもしれない。さっきのような芝居が必要な状況でもなければ、もう「ティナ姉ちゃん」と呼ばないことも、水着姿のティナを正面から見ないことも、ティナは「思春期だから」で片付ける。抱き締めるのを嫌がっていた子がキスしてほしいだなんて、どういう事だろう。きっと女の子やキスやそういったものに興味がある年頃なのね。それ以上、深く考えてはいけない気がした。


 人影もまばらな海水浴場の外れまで来ると、少年は足を止めた。昼時のピークを過ぎ、客足の途絶えた海の家の裏手にまわり、壁にもたれる。お互い黙りこくったままだ。
「ティナ」
「うん……」
 恐る恐る肩に手を添え、少し身をかがめると、少年が落ち着きなく瞬きする。一息にやってしまおう。ティナは深呼吸して、顔を近づけた。

「……っ」
 唇を頬につけると、少年がぶるりと身震いする。何しろ初めてのことで、キスひとつ落とすにも力加減が難しい。意図せずちゅっと音を立ててしまい、ティナは赤面した。
「これでいい?」
「一回じゃ全然足りないよ。相場を、考えてよね」
 強気に言いながらも、ちらりとこちらを窺うのが微笑ましい。ティナは要求に応えることにした。
 ナンパから助けた報酬に相場があるのか、飲み物と焼きそばは合わせてキス何回分に換算できるだろうかと考えながら、顔を寄せる。
 今度は音を立てないよう、うぶ毛をかすめるように、そっと。一回。濡れた髪からのぼる、潮の香りが鼻をくすぐる。もう一回。唇が触れるたび、少年の頬の温度が上がってゆくのが、いとおしい。きっともうこんな機会は訪れない。彼は自分をどう思っているのだろう。助けてくれたとき、自分では彼氏に見えないから「彼氏が向こうで探してる」と言ったのだろうか。そんなことないのに。そんなこと、たまくんなら、私は……私は、何だというの。なぜだか涙が出そうになってきつく目を閉じる。わたしは。

 たまくん。たまくん。きみが、好き──言ってしまいそうになるのを堪えるように、閉じ込めた熱をうつすように、ティナは少しずつ位置を変え、何度も唇を落とした。
 少年の手がさまよい、ティナの空いた左手をつかまえる。目を閉じて感覚が鋭くなった熱い指先を、絡め、握りあう。
 くちづけの合間に、少年の睫毛が震えるのをぼんやりと見つめる。遠い潮騒に、時折ちゅっと離れる唇、自分の心臓がどきどきと打ち、彼が漏らす吐息がティナの感じる音のすべてだった。
「ティ、ナ……こっち、にも」
 かすれた声に、はっと我に返る。焼け付く砂浜の白と、自分たちのいる日陰の暗さに目眩がする。
「っ……調子に、のらないの」
 調子に乗ったのはティナの方だった。これ以上は良くない気がして反射的に身を離す。二人きりで下着に近い格好で、私たちは、何を。表情を見られたくなくて、後ろを向き自分自身を抱き締める。火傷しそうなくらいに熱い。砂の上にぺたんと腰を下ろすと、冷たくて気持ちがよかった。パーカーを脱ぎたかったが、今このタイミングで脱ぐのは、何だかとてもはしたないことのように思えた。  

 息を整えた少年が口を開く。
「ティナって……僕のこと、好きでしょ」
 喉から飛び出そうになった心臓を飲み込み振り返ると、だってさぁ、いまのは、ごにょごにょ。うつむいて何か言っている。どうしてわかったの、と言いかけて口をつぐむ。自分はたった今わかったばかりだというのに、どうしてこの子はこんなに聡いのだろう。
 きっ、と顔を上げた少年の、ほとんど睨むような眼がティナを射る。
「僕は、ティナが好きだよ」
「……わたしは、……」
 黙ってしまったティナに、少年は質問を替えた。
「なんで唇はだめなのさ」
「……まだ、早いと思う。たまくんにも、私にも」
 少年は、じゃあさっきのは何なんだよと言いたげな顔をしたが、ティナをまじまじと見て納得したようだった。ややあって、少年の瞳がひらめく。爛々と輝き出す。
「大人になったらいいってこと? 僕が十八になったらキス、してもいいと、思ってる……?」
「…………」
 ティナは目を伏せ、こくりと頷いた。前髪が赤い顔を隠し、結った髪がかすかに揺れる。
「やった……」
 小さく拳を握る少年を横目に、うすく溜め息をつく。これでは、好きだと認めたも同然だ。火が出そうな頬に、熱の醒めない手のひらを当てる。急にのどの渇きを覚え、飲み物を買いに出たままだったことをティナは思い出す。
「ね、もう戻ろう」

 砂浜を歩きながら考える。
 五年後。五年は長い。とても。特に彼の年齢は、毎日色々なことが起きて変わっていく。その頃には、彼との距離は縮められない程に広がっている。真っ直ぐな瞳がティナを見つめているのも、今だけのことだ。
 好きな人ができてその相手も自分を好きで、なのに胸が苦しい。夏が終われば、ティナは十八になる。彼が大人だという年齢。  

「期間限定ポーション、海の家にあるかしら? 皆の分も買っていきましょ」
「アップルサイダー味だっけ。ティナはコドモだね、あんな甘いのがいいなんて。僕はジンジャーエールがいい」
「甘いのが飲みたいの。たまくんのほっぺ、しょっぱいんだもの」
「……!」
 あ、赤くなった。思った時にはもう、走り出している。
「たまくん!? 待ってよ、もう」
 自分の足では、彼に追い付けない。……追い付けない。
 ジンジャーエールだって、甘いのにね。遠ざかる小さな背中を見つめ、ティナは目を細めた。

2014.07.23